エジプトとマグリブを中心としたイスマーイール派の王朝。909-1171年。北アフリカのベルベルの支持を秘密運動によって結集することに成功したイスマーイール派は,アリーおよびファーティマの血を引くと称するウバイド・アッラーフ`Ubayd Allāh al-Mahdī(?-934)をシリアからイフリーキーヤに招いてマフディー(救世主)とし,909年,アグラブ朝を倒してカリフに推戴した。これがファーティマ朝の始まりである。この王朝は,アッバース朝カリフに対抗してカリフを称した,現実に力をもつ最初のシーア派の勢力である。ファーティマ朝の建国運動が短期間に成功したのは,軍事的にはベルベルのクターマ族の力によるところが大きい。北アフリカの情勢は複雑で,成立したばかりのファーティマ朝は多くの困難にぶつかったが,2代目のカーイムの時代には,トリポリを制圧し,エジプトにまで兵を進めた。4代目ムイッズ時代に,部将ジャウハルの活躍で,西はモロッコから東は紅海,シリアまでの広大な地域を支配下に入れた。
イフシード朝支配下のエジプトを征服したジャウハルは,フスタート北方に新しい都カイロを建設し,カリフ,ムイッズを972年に迎えた。ムイッズと次のアジーズの時代は,ファーティマ朝が最も充実した時代で,政治的な安定と経済的繁栄を謳歌した。キリスト教徒やユダヤ教徒に対しても寛容な政策をとり,政府の官僚としても多くを登用した。一方,イスマーイール派の布教組織も,アズハルを中心にしっかりとつくり上げられ,多くの宣伝者(ダーイー)が各地に派遣された。11世紀の第8代ムスタンシルal-Mustanṣir(在位1036-94)の治世は繁栄で始まり,干ばつ,飢饉,疫病などの天災と軍閥の抗争,民衆の反乱が重なり,衰退の進行で終わった。この間にヨーロッパの勢力により地中海の島々を,セルジューク・トルコの進出によりシリアの多くを失った。この危機に登場したのが,ムスタンシルの宰相バドル・アルジャマーリーとその息子のアフダルで,2人の努力により,ある程度の秩序を回復した。しかしアフダルの時代には,十字軍がシリア・パレスティナに侵入し,ファーティマ朝の領域はエジプトだけになってしまった。ムスタンシルの死後,継承問題が起こり,廃嫡されたニザールを支持する人々は,ファーティマ朝を離れニザール派となった。この後のファーティマ朝は宮廷内の権力闘争と軍閥の抗争に終始し,ますます弱体化した。12世紀後半にはシリアのヌール・アッディーンによって派遣されたサラーフ・アッディーンが宰相となって実権を握り,1171年最後のカリフ,アーディドの死によって王朝は滅びた。
ファーティマ朝の繁栄は,ベルベル,スーダン人,ギリシア人などからなる強力な軍隊と,豊かなエジプトの経済に支えられていた。ことにインド洋-紅海-地中海を結ぶ貿易で,ファーティマ朝は大きな利益をあげた。文化的にもイスマーイール派の布教と並んで学問の振興に力を入れ,アズハルやダール・アルヒクマ(1005年カイロに建設)などを中心に宗教的学問だけでなく,哲学,医学,文学などの発展に寄与した。
執筆者:湯川 武
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北アフリカより興った、イスラム教シーア派の一派イスマーイール派の王朝(909~1171)。アリーと預言者ムハンマド(マホメット)の娘ファーティマの子孫を称するウバイド・アッラーは、北アフリカにおけるイスマーイール派の布教の成功と、ベルベル系のケターマ人の支援を背景として、909年にチュニジアのアグラブ朝などを倒してファーティマ朝を建て、スンニー派のアッバース朝カリフに対抗して、自らもカリフと称した。ファーティマ朝はチュニジアを根拠地として北アフリカから地中海に進出し、シチリアも征服した。第4代ムイッズ(在位952~975)のときにイスラムの中心地を目ざして東進し、969年にエジプトを占領、新都カイロを建設し、本拠をエジプトに移した。引き続きパレスチナ、シリア、ヒジャーズ地方をも併合し、11世紀なかばにはバグダードにまで迫ってアッバース朝を脅かした。第8代ムスタンシル(在位1036~94)の時代が最盛期であると同時に衰退の始まりで、12世紀になると、外部勢力による領土の縮小、権力闘争による内政の乱れがおこり、結局1171年にサラディンによって滅ぼされた。ファーティマ朝はイスマーイール派の王朝として熱心に布教活動に努め、学芸、文化を振興する一方、キリスト教徒やユダヤ教徒にも寛大な政策をとった。10世紀末から11世紀のエジプトは、ファーティマ朝の支配下にあって、東西貿易の繁栄、農業の発展、西アフリカとの金貿易などにより経済的に大いに栄えた。
[湯川 武]
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909~1171
北アフリカに興ったイスラーム王朝。シーア派の一分派イスマーイール派の宣教工作の発展で,初代オバイドゥッラー(在位909~934)はカリフの称をとり,またマフディー(救世主)と称した。チュニジアを本拠としたが,969年エジプトを征服して,カイロ市を建設,ここに都を移し(973年),またシリアやアラビアにも支配を広げた。アッバース朝や後ウマイヤ朝と対抗し,シーア派イスラーム文化の中心となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…続くアッバース朝には,サーマッラーの邸宅址の壁画がある。また,ファーティマ朝のカイロ郊外における浴場址,パレルモのカペラ・パラティーナ,ガズナ朝のラシュカリー・バーザールの宮殿址,サファビー朝のイスファハーンのチェヘル・ストゥーン宮殿などの壁画が知られている。主題は,狩猟図,饗宴図など帝王主題にかかわるものが多い。…
…10世紀の前半から末まで,北シリアはハムダーン朝(905‐1004)が勢力を張っていた。970年にファーティマ朝(909‐1171)がシリアに進出したが,南部と沿岸地方のみで,北部は混乱しておりビザンティン帝国がしばしば侵入してきた。このように9世紀の半ば以降,シリアはエジプトとの結びつきが強くなり,エジプトに本拠を置く勢力に支配されることが多くなった。…
※「ファーティマ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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