コムニダーデスの乱(読み)こむにだーですのらん

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

コムニダーデスの乱
こむにだーですのらん

1520年、スペインのトレド市を中核とするカスティーリャ地方の諸都市連合(コムニダーデスcomunidades)が、スペイン王カルロス1世(在位1516~56。神聖ローマ皇帝としてはカール5世、在位1519~56)に対して起こした反乱。コムネロスcomuneros(自治都市の構成市民)の乱ともよばれる。フランドル出身の同王による慣行無視の統治と彼が伴ってきたフランドル人に主要官職を独占させたことは、上級貴族を含むカスティーリャ人の反発を招いた。加えて同王は1519年ドイツ(神聖ローマ)皇帝に選出されたが、この選挙費用調達のため、強圧的手段で議会(コルテス)に特別上納金の拠出を承認させた。トレド市参事会はこれを不法として支払い拒否を決議、カスティーリャ諸都市がこれに続いた。王が皇帝戴冠(たいかん)のためドイツに赴くのを機に各都市は反乱を開始(1520年4月)、王代官、王支持派代議員の放逐、処刑を敢行する都市もあった。旧来の免税特権を脅かされた下級貴族も合流し、反王権の点で反乱支持を表明する上級貴族も現れた。反乱諸市は指導会議(フンタ・サンタ)を結成、トレド市参事会員フアン・デ・パディリャJuan de Padilla(1490―1521)に反乱軍の総指揮をゆだねた。しかし、王権に対する要求のなかに都市と貴族の租税負担の同等を掲げたことから貴族層の反乱離脱を招く一方、王権側の都市分断策(個別的に特権回復を提案)によって、反乱側に内部分裂が深まった。
 反乱には都市の反封建闘争の一面もみられたが、特権の保護・拡大を軸とする限り、都市上層市民の運動にとどまり、下層市民、農民の支持を得ることは困難であった。官職任命などの譲歩により上級貴族の支持を回復した王権は反攻に転じ、ビリャラールの戦い(1521年4月)に勝利して、反乱を鎮圧した。この結果カスティーリャ諸市の自立性は失われ、市民階級の発展が阻害されるとともに、特権確保に成功した上級貴族の存続は、スペイン絶対主義体制の脆弱(ぜいじゃく)性を用意することになった。[山本 哲]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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