コルテス(読み)こるてす(英語表記)Hernán Cortéz

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コルテス」の意味・わかりやすい解説

コルテス
Cortés, Hernán(Hernando)

[生]1485. エストレマドラ,メデリン
[没]1547.12.2. セビリア付近カスティリェハデラクエスタ
スペインの探検家,メキシコ征服者。下級貴族の家に生れ,サラマンカ大学で法律を学んだのち,1504年ヒスパニオラ島へ渡り,11年 D.ベラスケス・デ・クエリャルのキューバ遠征に参加し,当時の首都サンチャゴの市長に任命された。 19年2月ベラスケス・デ・クエリャルの命令で五百余の兵を率いてメキシコへ向い,3月タバスコに上陸。さらに航海を続け,都市ベラクルスを建設,その地の総督となった。 11月アステカ帝国の首都テノチティトランへ到着,アステカ帝国の巨大な富を知り,帝国の侵略を決意,王モンテスマ2世捕虜とした。 20年6月アステカ族の反撃を受けてかろうじて首都を脱出 (→悲しき夜 ) ,翌 21年8月に再占領,部下とともに広大な土地と多数のインディオを支配下におき,スペイン植民地の基礎を築いた。しかし,その巨大な富と権力をスペイン王室に危険視されて,26年統治権を奪われた。 28年帰国したコルテス国王カルロス1世 (神聖ローマ皇帝カルル5世 ) に訴え,一時成功したようにみえたが,結局 35年副王制の確立によって完全に政治権力を失った。この間グアテマラやカリフォルニア半島などへ遠征隊を送った。 40年スペイン帰国後も国王に冷遇され,失意うちに死んだ。

コルテス
Cortes

近代以前におけるスペイン・ポルトガル諸王国の身分制議会。近代のスペインでは国民議会をさす。コルテスとは元来「宮廷」の意味。最初は封建家臣会議であったが,13世紀後半から貴族,聖職者のほか都市代表を加えて身分制議会となった。レオンは 1188年,カスティリアは 1250年,ポルトガルは 54年,アラゴンは 74年,カタルニャは 83年,それぞれコルテスを開催。国土回復運動の過程において,国王は戦費と軍事力の援助を都市に依存し,また封建貴族に対抗する必要上,市民層の支持を必要としたことがコルテスの成立を促進したとみられる。最盛期は 14~15世紀。その後,都市代表は国王の権力と結びつき大衆から遊離してコルテスは衰退。 19世紀に入ると市民による議会としてコルテスが開かれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コルテス」の意味・わかりやすい解説

コルテス(Hernán Cortéz)
こるてす
Hernán Cortéz
(1485―1547)

スペインのコンキスタドレス(征服者)。エストレマドゥーラの貴族の家に生まれ、サラマンカ大学に学ぶ。18歳で海を渡り、西インド諸島サント・ドミンゴへ来島(1504)。1511年ベラスケスのキューバ征服に参加、さらにメキシコ征服では指揮官に任命され、各地で兵員を増強し、11隻の船団に660人の兵員、砲14門を擁して1519年キューバ西端サン・アントニオ岬を出帆、ユカタン半島に向かった。暴風雨や先住民の反抗にあったりしたが、結局4万の先住民軍を降伏させて講和した。このときに贈られた20人の女奴隷の1人マリナルと結婚して航海を続け、アステカの首都に近い港にベラクルスを建設、命名し、永久植民地とした(1519)。モクテスマ2世のメキシコ地方は政情騒然としていたが、コルテスの征服軍に頑強に抵抗。一方キューバ総督ベラスケスとの関係が悪化し、ハイチ総督ディエゴ・コロンの仲裁も空しく、ベラスケスはコルテス追討のためナルバエスを派遣(1520)したが、コルテスは逆にこれを急襲、ナルバエスを配下に加えた。その後、メキシコ側と苦戦のすえ、アステカ文化を破壊、先住民を虐殺してこれを平定(1521)。ヌエバ・エスパーニャ植民地の経営に意を用い、さらに南方マヤ、西方の未開地を探検、アジアへの道を探索したが、大きな成果をみず、1540年帰国した。

[飯塚一郎]


コルテス(スペインの身分制議会)
こるてす
Cortes スペイン語

中世後半スペインの身分制議会。王と僧族・貴族代表からなる統治助言・承認機関「クリア・レヒア」に平民(都市自由民)代表が新たに加わって成立。1188年レオン王国で初めて開催された。これはドイツ、イギリス、フランスに半世紀から1世紀先んじている。租税負担同意の対価として王権の制約を求めることが基本的機能で、のち立法機能も備えるようになった。カスティーリャでは僧族、貴族、平民の3身分による構成であったが、身分別審議制はなく、不定期開催で立法機能の確立をみないまま、貴族間抗争の激化のため、14世紀には開催不能となった。コムニダーデスの乱(1520~21)以後は、王領地内18の都市代表のみの参加となり、翼賛的機関となった。アラゴンでは大貴族、騎士、聖職、平民の4身分からなり、厳格な身分別審議制であった。王権の不法行為の有無がつねに第一議題とされ、13世紀に立法権を確立、14世紀からは定期開催(隔年)となって、王権監視、制約の機能を強めたが、スペイン継承戦争に勝利したフェリペ5世により廃止された。

[山本 哲]

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