富籤(読み)トミクジ

デジタル大辞泉 「富籤」の意味・読み・例文・類語

とみ‐くじ【富×籤】

番号入りの札や券などを販売し、抽籤ちゅうせんなど偶然により当籤者を決め賞金を支払うくじ。江戸時代には、興行主が番号入りの富札とみふだを売り、別に用意した同じ番号の木札を箱に入れ、期日に箱の小穴からきりで木札を突いて当たりを決め、賞金を支払った。主に寺社が修復費募集の場合に許可されて興行主となった。江戸では谷中感応寺湯島天神目黒不動のものを三富といった。富突き。福富。見徳。

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精選版 日本国語大辞典 「富籤」の意味・読み・例文・類語

とみ‐くじ【富籤】

  1. 〘 名詞 〙 江戸時代から流行した一種の賭博的興行。興行主が富札を売り出し、それと同数の木札を箱に入れ、所定の日に、箱の小穴から錐(きり)で突き刺して当たり番号をきめ、規定の賞金を与えた。興行主は売上額から、賞金の総額・必要経費を差し引いたものを収得する。多く寺社が興行を許されて修復財源とした。江戸では谷中感応寺・湯島天神・目黒不動の富が三富と称されて有名であり、京・大坂辺でも盛行した。古くは「富突」「富」などと呼ばれた。万人講。
    1. 富籤〈東都歳事記〉
      富籤〈東都歳事記〉
    2. [初出の実例]「昔は各所に千人講鬮(トミクヂ)と云ふ物が流行致しました」(出典:落語・千両富(1893)〈禽語楼小さん〉)

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改訂新版 世界大百科事典 「富籤」の意味・わかりやすい解説

富籤 (とみくじ)

主催者が多数のくじを販売し,売上げから手数料と取得分を差し引いた残りを抽選で当たったものに支払う賭博の一種。英語ではロッテリーlotteryといい,lot(くじ,運)の集合名詞である。くじは豊凶や勝敗を占うものとして古くから用いられ,現在でも裁判の陪審員の選出などにも利用されている。旧約聖書には神がモーセにくじで土地を分配することを命じた例(《民数記》26章)などが出てくる。古代ローマの皇帝アウグストゥスやネロは闘技場の観衆や収穫祭の参加者に札をまき,奴隷やサンダルが賞品として当たるくじ引を催したという。

 現在の様式の富くじは,1466年にベルギーブリュッヘブリュージュ)で貧民救済の資金調達を目的として始められた例があるが,盛んになったのは1520年代のイタリアの都市においてである。いずれも公共の資金を調達するためのもので,賞品には宝石や家具があてられた。賞金が当たる富くじは1530年にフィレンツェで行われたものが最初といわれ,たちまち各地に普及した。また,ジェノバで議員を選出する際に採用した抽選方法を起源とするというジェノバ式富くじは賭博性が強く,ロトとも呼ばれて現在も行われている。フランスでは,フランソア1世の許可を得て1520年代から富くじが盛んになった。40年代にはオランダでも富くじが始められ,クラス(等級)くじという現在もドイツで盛んな方式を生み出した。イギリスでは1569年にエリザベス1世の勅許状が出され,1枚10シリングで40万枚が売り出された。こうして17世紀には富くじが出そろって本格化するとともに,射倖心を助長し道徳的退廃を招くという反対意見が強まり,主催者やその一族による不正も激しかったため,禁止令が出されたが実効はうすく,フランスではルイ14世のころの重要な国家財源とされ,のち1776年に国営に一元化された。イギリスでは,新大陸の植民地開発のためバージニア会社がくじで資金の大半を稼ぎ,ロンドン給水設備や大英博物館などもくじを発行して建設資金とした。独立後のアメリカでも,ハーバードイェールをはじめとする大学の建設のためのくじなどが催され,1830年代には1年に8州で420種類も売り出されたという。なかでも1869年に始まったルイジアナ・ロッテリーは規模が大きく,25年間にわたって続けられた。一方,1823年になるとイギリスで富くじ禁止令が出され,36年フランス,63年イタリアでも禁止された。アメリカでも78年には最高裁判所が富くじの郵送を禁じた。しかし富くじはさまざまの形で生きのび,20世紀になると中近東,東南アジアを含む世界各国でしだいに公認されるようになった。フランスでは1933年に国営富くじが開設され,またソ連でも第2次大戦中は富くじで軍事費の一部をまかなうなど,資金調達の手段としての役割は変わらず,現在も各国の事情に応じて,スポーツやギャンブルと組み合わされたくじ,特定の文化事業のためのくじ,あるいは手に入りにくい住宅,自動車などを賞品として夢を売るくじなどが人気を保っている。
執筆者:

富くじの起源は室町時代に求められるが,江戸時代に入って盛んとなり,富突(とみつき)または突富と称し,江戸,京都,大坂の三都では社寺の再建や修理などに際して富くじ興行が見られた。摂津箕面の弁才天,大坂の太融寺,京都御室の仁和寺の富くじ興行は有名であり,江戸では谷中の感応寺,目黒の滝泉寺,湯島の天神を江戸の三富(さんとみ)と称した。江戸幕府は寛永期(1624-44)ころからこれを公認した。富くじの発売者である興行者は当りくじを決めるに際して,一定の期日に特定の場所に買主を集め,売り出した富札と同数の木札を箱の中に入れ,きりで突き刺して当り番号を決定し,当選金を支払った。富札の値段は銀1匁5分から2匁5分くらいのものが比較的多く,現在の1500円から2500円くらいに相当していた。当選金は1831年(天保2)12月の京都妙法院宮大仏殿の修理の際の富くじ興行では,当り札の最高金100両で,最低は金1分であった。現在の600万円から1万5000円くらいに相当する。今日の宝くじと同じように庶民の射倖心を誘うものであった。富くじの流行は文化期(1804-18)から天保(1830-44)初期にかけて頂点に達し,影富(蔭富)といわれる富札の代用物まで現れ,富札を買い求めることができなかった者たちがこれを買い入れ,実際に行われた富くじ興行での当選番号に対するかけをした。この影富の富札は低廉で銭数文(現在の数十円)で買い求めることができたので,市井の間で盛んに行われた。それが過熱化したので,1834年老中の水野忠邦は富くじ興行の統制を厳しくし,42年には天保改革により富くじ興行はいっさい差止めとなった。そのため表面上富くじ興行はその跡を絶った。
宝籤 →ビンゴ
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「富籤」の意味・わかりやすい解説

富籤
とみくじ

江戸時代に流行をみた抽選によって当り籤を決める賭博(とばく)類似の催し。「富突(とみつき)」ともいうが、この呼び名は、抽選の際、櫃(ひつ)の中の木札を錐(きり)で突き刺して当り番号を決めるためである。売り出される札のほうを富札という。富籤の起源は明らかではないが、京都、大坂のほうが早く、江戸では1692年(元禄5)に出された「富突講」に対する禁令からも、元禄(げんろく)(1688~1704)ころには盛んであったと考えられる。その後幕府は寺社の修復費捻出(ねんしゅつ)の手段として特別に許可するようになった。つまり、8代将軍吉宗(よしむね)の1730年(享保15)、江戸護国寺の修復費用にあてるため富突興行を許した。それ以前から寺社の富突は、たびたびの御触(おふ)れにもかかわらず存続していたが、幕府により公認されてからは急激に盛んになり、文化・文政年間(1804~1830)には、3日に一度はどこかで富籤が催されていたほどである。なかでも有名なのは目黒不動尊、湯島天神、谷中(やなか)天王寺(感応寺)のもので、これを「江戸の三富」といった。

 抽選の当日は境内に桟敷(さじき)を設け、興行者側の世話人、寺社奉行(ぶぎょう)の検使が立ち会い、目隠しをした僧が錐で櫃の中の木札を突き刺す。木札は桐(きり)で大きさは縦横1寸半(約4.5センチメートル)に厚さ4分(約1.2センチメートル)、表に番号がついている。これに見合う富札は、長さ5寸(約15センチメートル)ほどの短冊形紙製、表に番号を書き、割印を押し、札店の名を記す。最初に突き上げたのを一の富といい、これを100両とすれば、2番目が半額の50両となり、100番まで突く。一般に賞金額は最初と突き止めの番号に多かった。

[稲垣史生]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富籤」の意味・わかりやすい解説

富籤
とみくじ

富突 (とみつき) ,突富,富ともいい,現代の宝くじに似た一種のばくち興行。興行主は富札を発行し,同数の番号札を箱に入れ,それを錐 (きり) で突き刺して当り札を決め賞金を出した。起源は不明であるが,江戸時代初期から関西で行われ,江戸でも元禄年間 (1688~1704) に流行した。享保年間 (16~36) ,幕府財政の悪化につれ寺社修理料が打切られると,幕府は修理助成のため特定の寺社に突富興行を公許した。江戸では谷中の感応寺,目黒の龍泉寺,湯島天神の興行が有名であるが,幕府の許可を受けないもぐりの隠富も多く,弊害が多いとして幕府はたびたび禁止したが効果がなく,明治2 (1869) 年頃まで続いた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「富籤」の解説

富籤
とみくじ

賭博の一種。主催者が発売した券札を,後日に抽籤して当籤金を支払うもの。頼母子(たのもし)(または無尽(むじん))の手法を利用し,1回限りで解散する取退(とりのき)無尽が原形となって,中世末に始まった。記号・番号による抽籤方式のほか,詞章による入札方式などの変形もある。賞金は売上額の一部を還元し,札元は損失をうけない。近世には富突(とみつき)といい,寺社救済の御免富(ごめんとみ)のほか各地で富籤を開催し,19世紀初期に盛行した。現在は宝くじ・競馬・競輪などが刑法の適用除外となっている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「富籤」の解説

富籤
とみくじ

江戸時代に流行したかけごと
とみつき・万人講などともいう。寺社の修理費・経営費を得るための興行で,幕府が公認して以来盛行。発売した富札と同数の番号札を富箱に入れ,きりで刺し取ったものを当たり札として賞金を出した。

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世界大百科事典(旧版)内の富籤の言及

【感応寺】より

…現在の山寺号に改称したのは,1833年(天保4)のことである。感応寺は江戸の富くじ興行で有名となり,湯島天神,目黒不動とともに江戸の三富と呼ばれた。また,当寺にあった五重塔は幸田露伴の《五重塔》のモデルとして知られる。…

【宝くじ(宝籤)】より

…正称は当せん金付証票。
【歴史】
 宝くじの前身は江戸時代に盛んに行われた富くじであるが,1868年(明治1)に明治政府により禁止された。復活したのは1945年7月の勝札(かちふだ)である。…

【賭博】より

…江戸時代の各藩の博奕取締りに必ず三笠付が含まれているので,全国に広まったことは確実である。 人口の集中した都市型賭博の典型的なものに富くじ(富突(とみつき))がある。富くじは主催者が大量の札を販売して金を得,その中より当り札(くじ)をつくり,購買者は当り札で高い倍率の金を受け取るしくみとなっている。…

【富久】より

…別名《富の久蔵》。幇間(ほうかん)の久蔵が酒で旦那をしくじり困っているときに,友だちにすすめられて歳末の富札(富くじ)を買う。札は松の百十番,当たるようにと神棚の大神宮様に拝んでから,そこに収めて寝てしまう。…

【谷中】より

…その中心をなした感応寺(天王寺)は応永年間(1394‐1428)の創建と伝えるが,3代将軍家光の代(1623‐51)に寺域を大拡張した。以来,毘沙門天をまつる巨刹として知られることとなったが,富くじ興業の勧進元としても有名で,のちに湯島天神,目黒不動とともに〈江戸の三富〉といわれた。その門前には感応寺表門前新茶屋町(俗称いろは茶屋)などの岡場所も発達し,遊客でにぎわった。…

※「富籤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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