スルタン・ガリエフ
Sultan Galiev
生没年:1880-1940
ボルガ・タタール出身の民族共産主義者。ロシアの二月革命後,1917年7月にカザン・ムスリム社会主義者委員会に加入し,同年11月,ロシア社会民主労働党(ボリシェビキ)に入党した。スターリンに抜擢されて,中央ムスリム軍事参与会議長,民族人民委員部参与会員,《民族生活》紙編集長,タタールスタン共和国中央執行委員などの要職を歴任した。彼はイスラム東方世界における社会主義の特殊な性格を強調し,階級闘争とプロレタリア独裁に関するマルクス主義の古典理論を修正することにより,〈第三世界〉の独自性に着目した最初の社会主義者である。23年5月に反革命容疑でスターリンの命により逮捕され,〈民族主義的偏向〉として党から除名された。いったん釈放されたが,28年に再逮捕,強制労働10年の刑を宣告され,ソロブキ収容所に服役した。40年処刑されたが,90年に名誉回復した。主要著作《ムスリムに対する反宗教宣伝の方法について》(1922)。
執筆者:山内 昌之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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「スルタンガリエフ」の意味・わかりやすい解説
スルタン・ガリエフ
タタールスタンの民族主義的共産主義者。ロシア二月革命後カザン・ムスリム社会主義者委員会に参加し,十月革命後ロシア社会民主労働党に入党,ボリシェビキ派に加わる。スターリンに見出され,中央ムスリム軍事参与会議長,民族人民委員部参与会員,タタールスタン共和国中央執行員などを歴任,イスラム世界における社会主義の独自性に注目し,古典的公式マルクス主義の修正を企てた。1923年反革命の容疑で逮捕され,民族主義的偏向の理由で党から除名,その後釈放されたが,1928年に再逮捕,強制収容所に送られた。1934年の釈放後1937年に3回目の逮捕をへて1940年処刑された。ペレストロイカのもとで1990年名誉回復。
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スルタンガリエフ
Mirsaid Sultan-Galiev
1892~1940
ロシア革命期にムスリム革命組織を指導したタタール人共産主義者。階級闘争よりはムスリム地域など植民地の解放を重視する独自の東方革命論を展開したが,スターリンと対立し,1928年再逮捕,流刑ののち処刑された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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スルタン‐ガリエフ
生年月日:1892年7月13日
ヴォルガ・タタール出身のムスリム民族共産主義の理論家
1939年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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