生産手段の私有と私的管理,労働力を含む商品の自由競争という資本主義社会の原則を批判して,生産手段の共有と共同管理,計画的な生産と平等な分配を要求する思想と運動,また,その結果具現された社会体制を広く社会主義と呼ぶ。社会主義という用語は,このように思想,運動,体制の次元にわたり,時には資本主義の個人主義的な利潤追求欲に対立するものとして集団主義的な友愛の連帯という倫理の次元までも含んで用いられるために,内容的には多義にわたらざるをえない。そして個々の社会主義的政策をめぐって社会主義者の間に深刻な対立が生じることも稀ではない。たとえば,ある社会主義者は生産手段の全面的な国有化を主張し,他の社会主義者は生産手段の国有化は一部にとどめ,資本主義と社会主義の混合経済,あるいは市場社会主義を唱える。
国家権力によって社会主義を施行しようとする国家社会主義にたいしては,労働者による生産の自主管理,地方自治体や協同組合への権力の分権化を要求する社会主義もある。
社会主義の思想は,産業革命にともなう不正と不平等と貧困にたいする抗議として誕生するが,いったん思想として形成されると,古代ギリシアの哲学者プラトンの描いた〈国制〉,16世紀初めのモアの《ユートピア》,18世紀啓蒙思想家の提出したさまざまの理想社会像にその起源が求められることになった。しかし近代的な意味での社会主義という用語は,およそ1830年前後に,フランスではフーリエとサン・シモン,イギリスではオーエンの思想を指す言葉として最初に登場する。他方で1840年代のパリでは,徹底した財産の共有と国家権力の奪取をめざす共産主義者の結社が生まれており,1848年にマルクスがイギリスの経済学,フランスの社会主義をドイツの観念論哲学と批判・融合して《共産党宣言》(エンゲルスと共著)を発表し,マルクスはそれまでの社会主義を空想的社会主義と呼んでみずからの科学的社会主義をそれに対置させた。それまでの社会主義が資本主義の悪弊にたいして人間主義的,道徳的な非難を向けたのにたいして,マルクスは過去の歴史と資本主義の現実にたいする科学的分析のうえに社会主義を構想した。これまでの歴史は階級闘争の歴史であり,資本主義社会における資本家階級と労働者階級の闘争はやがて労働者階級の支配する社会主義社会にいたると展望された。こうして社会主義は,労働者階級の運動と理解されることになったのである。
1864年に,イギリスとヨーロッパ大陸の労働運動の代表と少数の知識人によって国際労働者協会(第一インターナショナルの名で歴史上知られるようになった。〈インターナショナル〉の項参照)が結成された。それには労働組合主義から無政府主義にいたるさまざまな潮流が流れ込んでいたが,マルクスはその創立に参加し,マルクス主義を流布する手段として用いようとした。協会の本部はロンドンにおかれていたが,マルクス主義的な革命的社会主義は労働運動が早くから成立していたイギリスには広がらず,大陸で,とくにドイツで強力に発展することになった。
ドイツでは,ラサールを指導者として労働者階級に基盤をおいた全ドイツ労働者協会が1863年に結成されていたが,69年にはマルクスの影響を受けたベーベルやリープクネヒトが社会民主労働党を設立した。この党は,宰相ビスマルクの社会主義者鎮圧法と社会主義を懐柔しようとした社会福祉政策にもかかわらず発展をつづけ,社会主義者鎮圧法が廃止された後の1890年には,さらに党名をドイツ社会民主党と改め,翌91年にはラサール主義を排して〈階級支配と階級そのものの廃絶〉を目標にしたマルクス主義的なエルフルト綱領を採択した。この党は第1次大戦前の最後の選挙となった1912年の選挙では,425万票,全投票数の3分の1以上を獲得して,ドイツ帝国議会で最強の政党となった。
1840年代,50年代のマルクスは,暴力革命による社会の革命的転覆と〈プロレタリアート独裁〉による労働者階級の支配を唱えていたが,60年代末には資本主義の十分な成熟を経てはじめて社会主義が可能になるという長期的な展望を抱くようになった。とくに1867年のイギリスの第2次選挙法改革によって,都市労働者上層にまで選挙権が拡張されるとともに,議会を通じて平和的に社会主義を実現する可能性を論じるようになった。彼は,アメリカ合衆国やオランダについても同じように平和的な社会主義実現の可能性を予想していた。したがって,同じマルクス主義の名のもとに,革命的社会主義と漸進的社会主義の双方を主張することが理論的に可能であった。
ドイツ社会民主党の指導者は,革命的マルクス主義の言葉を語ってはいたが,現実には議会活動に専念していた。党の理論的指導者カウツキーは,経済関係の発展によって社会主義が必然的に到来するという経済決定論を唱えた。またベルンシュタインは,イギリスのフェビアン社会主義の影響を受け,他の進歩的政党と協力して議会立法を通じて社会を社会主義の方向に改革する路線を提唱した。ベルンシュタインの理論は,国家権力の核心がプロイセン陸軍の手に握られているドイツの現実を無視してはいたが,ドイツの党の活動の状態を率直に反映していた。他方で党内左派のローザ・ルクセンブルクらは,ゼネラル・ストライキによる権力奪取という革命的変革の展望を抱いていた。
ベルンシュタインの修正主義と,カウツキーに代表される党主流との闘争は,1903年の党大会決議によって形式的には修正主義の敗北に終わったが,現実に修正主義は党の体質に浸透しており,第1次大戦が勃発すると党指導者は政府を支持し,党の革命的言辞が空文句であったことをおのずから露呈した。
第一インターナショナルが1876年に解体されたことは,国際的な社会主義が一つの中心部から指導することはもはや不可能になったことを示していた。それ以後の社会主義の歴史は,各国における社会主義政党の発展の歴史であった。20世紀初頭には,ヨーロッパの多くの国で社会主義は強力な議会勢力であった。専制的な皇帝支配が存続したロシアを別とすれば,ヨーロッパの社会主義の主流は既存の体制の漸進的・議会主義的改革を志向する改良主義によって占められており,革命的変革を望む左派は少数勢力であった。
1889年に設立された第二インターナショナルは,このような運動の性質を反映して,統一された国際的運動というよりいわばヨーロッパ社会主義の議会とでも呼ぶべき性質の組織であった。そしてヨーロッパ最大のドイツ社会民主党が大きな影響力をもった。1870年代以降,デンマーク,スウェーデン,ノルウェー,オランダ,ベルギー,オーストリアに社会民主党が成立しており,資本主義の発展に遅れたイタリア,スペインには第一インターナショナル以来のバクーニン派無政府主義の勢力が強かったが,それでも第二インターナショナル系統の政党が生まれていた。
一方,先駆的な資本主義の発展を遂げたイギリスでは強力な労働運動が存在しており,自由党と提携して社会立法を成立させる圧力団体的な能力を早くからもっていたために,全国的な社会主義政党の結成についてはかえって他の国に遅れた。H.M.ハインドマンの指導する民主連盟(1881成立)は,1884年にマルクス主義的綱領を採択して社会民主連盟と改称するが,同じ年,芸術家W.モリスはエンゲルスの支持を受けて,この連盟を脱退し社会主義連盟を結成する。しかし,いずれも大衆的な支持を受けなかった。一方,J.K.ハーディが独立労働党を結成して労働組合との提携をはかり,1900年,労働組合と社会主義団体の連合体として労働代表委員会が創設された。これは労働者階級の代表者を議会に送るための組織であったが,1906年には名称を改めて労働党となった。この党が,フェビアン社会主義者のウェッブ夫妻の影響のもと,〈分配と生産の手段の公有〉という明確に社会主義的な綱領を掲げるのは,第1次大戦末期の1918年のことであった。
パリ・コミューン敗北以後のフランスでは,マルクス主義者のJ.ゲードを指導者とする労働党が結成されていたが,ブランキ,プルードンらの無政府主義,政治活動にたいする強い不信を抱くサンディカリスムの影響が強く,社会主義運動は複雑な分裂を繰り返した。1890年代の半ば,ドレフュス事件でフランスの政治諸勢力が大混乱に陥り,99年には共和国防衛を目的として結成された急進派ワルデック・ルソーの内閣に社会主義者A.E.ミルランが入閣した。この社会主義者の政権参加は第二インターナショナルの重要な議題となり,1904年のアムステルダム大会ではドイツ社会民主党の影響のもとに,入閣を支持したJ.ジョレスの立場が否定された。第二インターナショナルは,迫りつつあった戦争の危機にたいして労働者階級の国際的連帯によって平和を守るという反戦決議を何度もおこなっていたが,大戦の前夜にはジョレスが暗殺され,各国社会党の主流はそれぞれの政府を支持して戦争協力に踏み切った。《共産党宣言》で,マルクスは〈労働者は祖国をもたない〉と書いたが,労働者階級もまた守るべき祖国をもっていることが明らかになった。
ロシア社会民主労働党の革命的左派ボリシェビキの指導者レーニンは,第1次大戦の勃発の直後に第二インターナショナルは破産したと判断し,1917年の十月革命によって政権を奪取すると,党名を共産党と改め,コミンテルン(第三インターナショナル)の結成を提唱した。コミンテルンは,各国社会民主党は労働者階級を裏切り,むしろ資本主義を維持する重要な支柱になっていると攻撃した。そして既存の党機構を分裂させて,中央集権的な強固な組織を有する共産党を各国に結成しようとした。〈社会民主主義〉は,共産党員にとっては悪罵(あくば)の言葉となり,社会主義勢力は共産党と社会党に分裂した。
ドイツでは,社会民主党はワイマール共和国を支える主柱となったが,共産党は社会民主党を社会ファシストとして攻撃し,プロイセン議会ではナチ党とともに社会民主党政権にたいして不信任投票を投じたこともあった。イタリアでは社会党は大きく分裂し,ムッソリーニの政権掌握を容易にした。ドイツ,イギリス,スカンジナビア諸国の社会民主党と労働党は,何度か政権に参加し,フランスではブルジョア左派政党とともに連立政権に参加した。しかしスウェーデンとベルギーを除いて,いずれも正統の財政政策をとり,おりからの深刻な大不況に有効に対処できなかった。
第2次世界大戦後,西ヨーロッパの社会主義政党は,混合経済とケインズ的景気政策のうえに社会福祉国家の樹立を主要な目標にするようになった。もともとマルクス主義の影響が弱かったイギリスでは,大戦直後の選挙で労働党がはじめて絶対多数の議席を得て,社会福祉国家を実現した。西ドイツの社会民主党は,1959年のバート・ゴーデスベルク大会でマルクス主義との絶縁を宣言し,福祉国家の拡大を志向する改良主義政党となった。
しかし,世界的にみたときに,社会主義勢力は増大した。社会主義国はソビエト一国から東ヨーロッパ全体へと広がり,東欧圏と呼ばれる社会主義地域をもつにいたった。また,1959年にはカストロの指揮の下でキューバは社会主義化を進め,61年にはキューバ危機を引き起こした。このような勢力増大のなかで社会主義国間での論争,対立も生じてきた。1948年のコミンフォルムによるユーゴスラビア共産党除名とそれに続く国交断絶と経済封鎖,56年の反ソ・反政府デモが国内に広がったハンガリー動乱,60年になって表面化した中ソ論争などがある。
それにたいして大戦後に独立を達成した第三世界においては,社会主義は急速な工業発展のためのイデオロギーとなった。ソ連は後進国の工業発展のモデルと目されるようになり,一党支配や軍事独裁の国を含めて多くの国が,それぞれの国の流儀での社会主義を名のるようになった。北アフリカの諸国では,フランス人の教師や公務員の影響のもとに社会主義が広がり,チュニジア,アルジェリアでは植民地支配にたいする闘争を支える思想となった。アラブ諸国では,シリアに樹立されたバース党の思想となっており,シリア,イラクで政権を担当しているが,具体的な社会主義政策を実施してはいない。アジアではいわゆる社会主義国以外でも,社会主義はインド,ミャンマー,スリランカ,シンガポール,インドネシアで公認の原則となっているが,西欧的な多元的政治体制を維持しているのはインドだけである。
世界の何百万の人々が,社会主義の約束する平等で民主的な友愛の社会に憧れを抱いているが,ソ連をはじめとする共産党独裁の国々における全体主義的政治体制と経済発展の停滞も重なって現実の社会主義は多様に分裂し,当初の魅力を失った。西ヨーロッパとアメリカ合衆国では社会主義とは社会福祉政策と同義の言葉となった。資本主義的市場経済と社会福祉との共存が先進諸国の課題となっており,社会主義は〈体制〉としてではなく〈政策〉として理解されることとなった。
→共産主義 →社会主義社会 →ユーロコミュニズム
執筆者:河合 秀和
欧米諸国で展開されていた社会主義思想や運動は,文献や海外旅行者の見聞をとおして,明治の初期から紹介されていた。とくに1880年代のアメリカは時代思潮の転換とともに社会主義と労働運動の台頭期にあり,アメリカでの生活は日本人に新たな思想をもたらした。それはキリスト教社会主義であり,都市での社会事業であり,S.ゴンパーズらの労働組合主義などであった。なかでも,E.ベラミーの《Looking backward》(1888)はこの時期の日本人に社会主義像を具体的に示し,キリスト教徒,政教社同人,社会主義者などに読みつがれた。その訳書も《回顧録》《百年後の新社会》《理想郷》とある。そして,《六合雑誌》《国民之友》などがそれらを積極的に紹介した。日清戦争後の産業の発達と資本主義化の進行は,社会問題とそれにたいする社会改良を自覚させ、研究組織(社会政策学会,社会学会,労働組合期成会など)を形成させた。1898年には社会主義研究会が組織され,それは1900年に〈実施に就て研究し且つ立働く〉目的で社会主義協会に発展した。01年には日本最初の社会主義政党社会民主党も結成された(即日結社禁止)。このような社会主義の一連の動向にたいして,政府は1900年に治安警察法を制定して,集会・結社・言論に制限を加え,運動・争議弾圧の武器とした。
日露開戦の気運のなかで,非戦論を主張しつづけた堺利彦,幸徳秋水らは,1903年11月平民社を結社し,週刊《平民新聞》を発行した。幸徳の著した《与露国社会党書》(《平民新聞》1904.3.13)は,ロシア社会民主労働党との提携へと導き,第6回万国社会党大会(アムステルダム)での片山潜とプレハーノフとの歴史的握手を生み出した。このように日本の社会主義運動は,反戦・反軍国主義のスローガンのもとに,多数の人びとが平民社を中心に結集した。それは〈有りと有らゆる生活層から一風変つた人間を網羅した社会団体〉(白柳秀湖)であった。日露戦争後の06年には〈国法ノ範囲内ニ於テ社会主義ヲ主張ス〉とする日本社会党が合法的に結成された。その後,幸徳を中心とする直接行動派と片山,田添鉄二らの議会政策派との対立が生じ,第2回日本社会党大会では大論争となり,直接行動派が実質的勝利をえた。その結果,政府は動向を危険視し,結社を禁じ,また陣営も分裂状態に陥った。さらに08年の赤旗事件,10年の大逆事件によって,社会主義運動全体は〈冬の時代〉に入った。
〈冬の時代〉の弾圧下で社会主義勢力を維持しつづけたのは,堺を中心とする売文社であった。また,大杉栄,荒畑寒村の創刊した《近代思想》は社会主義者唯一の合法雑誌であった。1915年に堺が〈小さき旗上〉として発行した《新社会》は,運動復活の端緒であった。第1次大戦の影響によって近代工業は発展を遂げ,工場労働者の数を急増させ,おりからの大正デモクラシーのなかで,民主主義の風潮や普通選挙の要望の高まりとともに,しだいに労働運動も勃興してきた。ロシア革命と米騒動のもたらした影響は大きく,新人会,暁民会,日本社会主義同盟などの社会主義団体が結成されていった。しかし、労働組合運動は勃興の過程で理論的対立を深めていった。いわゆるアナ・ボル論争の激化である。23年の関東大震災に際しての甘粕事件,亀戸事件はアナルコ・サンディカリスムの勢力を決定的に衰退させた。
ロシア革命の成功によって,アナ系組合からボル系(共産主義)に移る者は増大し,1922年にはコミンテルンの指導のもと,日本共産党が非合法に結成された。その〈網領草案〉(22年テーゼ)は,コミンテルン第4回大会(1922.11.5~12.5)でブハーリンによって作成されたといわれ,天皇制の廃止,貴族院の廃止,18歳以上男女による普通選挙権などが掲げられた。また,労働組合への影響を強めるために日本労働総同盟(総同盟)などの党員獲得を図った。23年6月の第1次共産党事件や9月の関東大震災に乗じた白色テロなどによって,共産党は壊滅状態に陥った。また,1920年代に入って活発化してきた小作争議にたいし,24年に小作調停法が制定された。さらに25年には普通選挙法と抱合せで治安維持法が制定され,社会主義運動は弾圧下におかれた。
1925年に日本農民組合(日農)が中心となって結成した,単一無産政党農民労働党は即日解散させられ,共産系団体を除いて,26年労働農民党(労農党)を結成した。しかし,その後左派団体の加入を認めるか否かで分裂し,日本労働組合総連合,日本労働総同盟などは脱退し,安部磯雄らの社会民衆党,麻生久らの日本労農党が結成された。また労働農民党は共産系団体と結合し,日本共産党の指導下に活動するようになった。27年コミンテルンの〈27年テーゼ〉にもとづいて再建された共産党は,組織を確立し,機関紙を発行した。〈27年テーゼ〉では,山川イズム,福本イズムの両者ともにレーニン主義とは矛盾するとして批判され,総同盟や農民組合などの諸組織に分裂をもたらした日本の共産主義者の誤りも正された。この〈27年テーゼ〉をめぐって,いわゆる労農派と講座派との対立が生じ,日本資本主義論争が約10年間続いた。一方、政府の弾圧も強まり,三・一五事件(1928),四・一六事件(1929)によって活動はますます困難になっていった。
1931年の満州事変の勃発によって日本の中国大陸への侵略は一段と進み,国内も戦時体制化へと進んでいった。この日本の状況に対して,日本共産党は,日本資本主義はすでに高度に発達し,帝国主義の段階にあるとして,〈政治テーゼ〉(31年テーゼ)草案を作成し,コミンテルンに提示した。しかし,コミンテルンはそれを承認せずに,〈32年テーゼ〉を作成し発表した。そこでは,今日の日本の条件下にあっては,プロレタリアート独裁は,ただブルジョア民主主義革命の道によってのみ,すなわち,天皇制を打倒し,地主を収奪し,プロレタリアート,農民の独裁を樹立する道によってのみ到達しうるとした。このテーゼに従って共産党は帝国主義反対闘争を展開していく。陸海軍人に向けて出版された《兵士の友》(1932.9.15創刊,第2号で停止)や反戦ビラの配布,兵営付近での張込み勧誘活動などもなされた。また文化活動としては,31年にコップ(日本プロレタリア文化連盟)がナップ(全日本無産者芸術連盟)を母体に結成された。しかし,闘争への精神的高揚とは裏腹に,弾圧はあいつぎ,35年には中央委員会が破壊されて,統一的指導力を失った。また1933年は佐野学,鍋山貞親が獄中転向声明をし,これを契機に〈転向〉現象が大量に起こった。これ以後,各地に分散している共産主義者によって,地下活動として反戦運動がなされたが成功しなかった。
唯一最大の無産政党としてあった社会大衆党は,軍の一部との結びつきを保ちつつ,増税反対,団結権擁護の運動をしてきたが,1940年,新体制運動を機に解党した。この間,1937年には日本無産党が結成され,労農派系が執行部に入ったが,人民戦線事件で壊滅した。この結果,社会主義運動は逼塞(ひつそく)状態に陥り,運動とはまったく関係のない活動をするか,沈黙を守ることで抵抗するなどが精いっぱいであった。戦時中の反戦運動は,野坂参三を指導者として,中国において続けられた。1940年に結成された日本兵士の〈反戦同盟〉,42年の在華日本共産主義者同盟,44年の日本人民解放連盟などがそれである。
執筆者:大塚 孝嗣
1984年初頭,ソ連をはじめ世界でおよそ17を数える社会主義国があるが,体制としてどこまで〈社会主義〉といいうるかについては,近年,多くの疑問が提起されている。1970年代以降のソビエト・マルクス主義の公式見解では,ソ連の現在の発展段階が,フルシチョフ時代の1960年代初めに打ち出された〈共産主義の展開的建設期〉という規定からいくらか後退して,〈発達した社会主義〉と規定されているとしても,マルクスの《ゴータ綱領批判》(1875)にいう広義の共産主義社会の第1段階(社会主義)のなかに位置づけられていることでは,基本的に変りはない。
しかしながら,社会経済体制としての社会主義は,資本主義社会で達成された高度な生産力と市民社会の民主主義を,生産手段の社会化を軸とする変革を通じて発展的に継承するところに成立する,というのがマルクスの原理的な社会主義像であったと考えられる。であればこそ,それは人間解放の理念と結びつけられたのであった。後進国的な条件のもとで成立し,社会主義という制度的枠組みがむしろ国の工業化,近代化のための手段として利用された(あるいは現に利用されている)現実の社会主義が,この理念像と著しくかけ離れたものであることは,自明の理に属する。同時にまた,ひとつの経済体制としてみるとき,それが資本主義とは異なった制度的特徴と作動の論理をもっていることは,否定さるべくもない。経済体制というものが何よりもその作動の論理によって区別されるとすれば,後述する1960年代の経済改革以降,市場的要素をより多くビルトインするようになったとしても,少なくとも原理的にはマクロ・レベルで意識的に採択される意思決定をもとに作動するこのシステムは,資本主義とは明らかに異なった制度類型に属する。ここでいう社会主義経済とは,こうした意味での〈現実存在としての社会主義〉の経済のことである。
上記の意味での社会主義経済が地上に初めて姿を現したのは,いうまでもなくロシアの十月革命以後のことであるが,それがいちおうの制度的完成をみたのは1930年代半ばであった。第2次大戦後,歴史や経済的諸条件がソ連とは著しく異なる東ヨーロッパ諸国や中国その他の国が社会主義の道を選んだとき,原型として採用されたのは,30年代にソ連で成立したこのモデルであった。労働者自主管理と市場経済を結びつけた1950年以降のユーゴスラビアの路線,挫折したチェコスロバキアの〈プラハの春〉(1968)当時の改革構想,同じく挫折したポーランドの〈連帯〉の闘争期に提起されていた改革構想は,いずれもこの基本モデルからの離脱ないし,離脱の試みであったということができる。他方,その他のソ連・東欧諸国では,60年代半ばの経済改革以来,漸進的な変化は進んではいるものの,ハンガリーを除いて,このモデルからの原理的脱却はなおおこなわれていない。
1930年代にソ連で成立した社会主義計画経済制度は,極度の中央集権を特徴とするものであった。農業の個人副業(自留地)経営とコルホーズ商業(自由市場)を除いて,社会的生産物の生産,流通,分配を集権的な中央計画でカバーし,市場的な要素が極端に排除ないし抑圧されているのが,その基本的な性格をなしていた。
こうした型の社会主義経済制度ができ上がった理由としては,次の三つが考えられる。第1は,マルクスおよびマルクス以後のマルクス主義が,社会主義経済を一種の非市場的経済とみなし,資本主義対社会主義という体制次元の問題と,市場対計画という機能システム次元の問題とを同一視してきたことである。生産手段を社会化したならば,社会全体を〈ひとつの工場〉のように運営できるだろうというイメージは,マルクスに発している。
第2は,十月革命からわずか8ヵ月後,1918年6月から21年3月まで,国内戦と外国干渉戦という非常事態のもとで施行された〈戦時共産主義〉の経験である。これは農民にたいする余剰食糧徴発制を中心に,労働の軍隊化と厳しい配給制による雇用,消費規制を結合した戦時統制型の経済で,市場関係はほとんど表面から姿を消したが,これが革命の熱狂と第1であげた社会主義経済像と結びついて,真の社会主義への道と考えられた。社会主義経済制度の最初のモデルが非市場型の中央集権経済として成立したという事実は,その後の社会主義の経済思想に大きな刻印を残し,1921年春からのネップ(NEP=新経済政策)による混合経済への移行にもかかわらず,清算されなかった。
第3に決定的であったのは,1928年の第1次五ヵ年計画の開始とともに始まった工業化計画が,資源の集中的配分を必要としたという事情である。これは後進国のたんなる工業化計画ではなく,世界資本主義の包囲下で孤立した社会主義国が,もっぱら自国の資源に依拠しつつ,およそ10年という短期間に,重工業・国防優先の工業化を達成する,という死活の要請によるものであった。ここから必要とされる極端に傾斜した資源配分は,市場機構によっては達成できず,逆にその排除を必要とする。ソ連型の集権的な計画経済制度がつくりだされたのは,行政的資源配分を可能にする〈装置〉としてであって,それが一方では意思決定の高度集中と行政的指令方式,他方では市場機構の極度の排除という特徴を帯びたとしても,少しも不思議なことではない。以上からして,このモデルが社会主義経済の一般型を代表するものでないことが明らかとなる。
上記の点をよく理解するには,ポーランドの経済学者ブルスWłodzimierz Brus(1921- )の社会主義経済機能モデル論を顧みる必要がある。ブルスによると,社会主義経済における経済的意思決定は,(1)マクロ経済的決定,(2)経常的企業活動に関する決定,(3)個人的消費と雇用に関する決定,の3グループに分けられるが,(1)は中央に握られ,(3)が(平時経済である限り)個人にゆだねられることは,集権モデルにも分権モデルにも基本的に共通するから,二つのモデルの違いは,(2)が中央に吸収されているか,企業の自主性にゆだねられているかによって決まることになる。
この観点からすると,集権型の計画経済とは,(3)グループの意思決定を除き,(1)(2)両グループの意思決定が中央に集中されている単一レベル意思決定one-level decision makingモデルということになる。1930年代初め以来,ソ連の企業法は,ソ連の企業を〈法人格をもつ経済計算単位〉と規定してきたが,実際には,中央計画を多数の義務的指標に分解breakdownして企業に下達するシステムをとってきたため,企業の経常的意思決定は,事実上,中央に吸収されているのに等しかった。
したがって,このモデルは,〈業務上の管理権〉という形で企業に一定範囲の裁量権を与え,また〈経済計算制(ホズラスチョート)〉というかたちで物動型の計画を財務的指標で補完している点からすれば,戦時共産主義のように完全非パラメーター型(直接指令型)の経済ではなく,一部に混合的要素を含んでいたが,全体としては非パラメーター型の行政的・指令的経済に属するものであった。しかしながら,集権型経済における多くの欠陥や作動上の困難は,皮肉なことに,意思決定の過度集中と経済の自己制御機構としての市場機構の排除という,まさにこの2点から発生するのである。
社会主義の計画経済一般,とりわけ集権型のそれは,たんなる経済システムとみなすべきではない。ブルスによれば,国家の経済への介入にともない,〈経済の政治化〉は現代資本主義でも進行している不可逆的な過程であるが,社会主義とはある意味でそれを可能な極限にまで推し進めたものであるから,そこでは史的唯物論にいう〈土台〉と〈上部構造〉の関係は逆転し,経済関係は政治関係にもとづいて成立している,という。ここから彼は,生産手段の公的所有public ownershipと社会的所有social ownershipとを峻別(しゆんべつ)し,前者を後者に転化していくのは何よりも政治体制の民主化であるとして,それを〈過程としての社会化socialization as a pro-cess〉と名づける。社会主義の経済システムを考える際に見落としてはならないのは,以上のような政治システムとの関連である。
1930年代に成立した集権型の経済体制は,スターリン体制と呼ばれる専制的政治体制と表裏の関係にあった。この政治体制の核心をなす〈国家化〉した党の権力独占は,スターリン批判(1956)後の一定の修正や緩和にもかかわらず,基本的に変わっていない。そのことが経済システムの改革にも,大きな限界を設定している。
一般に社会主義経済の基本標識としてあげられるものも,上記の考察と切り離すことはできない。
1977年10月制定のソ連新憲法を例にとると,生産手段の社会主義的所有には,(1)国家的(全人民的)所有,(2)コルホーズ的・協同組合的所有という二つの基本形態があり,副次的に(3)労働組合その他の社会団体の財産も社会主義的所有とされている。他方,(4)〈個人的所有〉というのは〈私的所有〉とは異なった概念で,勤労所得にもとづく個人所有の消費財や家財,住宅および〈家内副業経営の物品〉などを指す。これとの関連で,コルホーズ農民や一般市民の副業(自留地)経営も〈個人的所有〉の特殊な形態として認められているし,個人労働ないし家族労働にもとづく家内手工業,農業,サービスその他の経済活動が,法律にもとづいて許可されることになっている。
したがって,生産手段の公有制といっても,基本的生産手段の公有制といったほうが正確であり,運用いかんによっては多様な所有・経営形態の組合せを可能とする枠組みをもっている。事実,最近のハンガリーや中国はその方向に向かいつつある。しかしながら,〈モデル論と政治システム〉のところで述べたことからも明らかなように,公的所有(国家的所有)はそのまま社会的所有(全人民的所有)ではありえない。それは直接には,国家に〈総括〉され〈媒介〉された所有という疎外性をもつが,この疎外の程度は,国家のあり方(民主性の程度)と経済管理をめぐる意思決定の構造(集権・分権の程度,生産現場における労働者の管理への〈参加〉の程度)に大きく左右される。この角度からみるとき,国家的所有は〈公的所有〉の一形態ではあっても,そのまま〈社会的所有〉ではありえない。同様に,コルホーズ的・協同組合的所有も,コルホーズの経済活動にたいする国家的規制の強さから,協同組合員の真の集団的所有とはいえず,〈国家化〉された所有に近い性格を帯びている。ユーゴスラビアの労働者自主管理は,公的所有のもとでの管理の重要性に着目して,この側面から公的所有にともなう〈疎外〉の克服を図ったものと考えることができる。
〈社会の経済的な事柄が原理上,私的領域ではなくて,公共的領域に属するような制度的類型〉(J.A.シュンペーター)である社会主義経済は,計画化と切り離すことはできない。現代資本主義の経済にも存在する計画化が,基本的には指針的計画化indicative planningであって拘束力をもたないのに対し,社会主義における計画化は,その包括性,深さ,強度の点でそれとは質的に区別される。計画経済planned economyと呼ばれる理由は,ここにある。しかしながら,計画経済の本質は,経済発展過程にたいする社会の〈意識的制御〉にあるから,この〈制御〉が実現される様式(行政的・指令的方法か,市場機構を利用した間接的・経済的方法か)によって,集権型計画経済と分権型計画経済の違いが生じ,その間にはさまざまな変型がありうる。後述する経済改革とは,通常,前者から後者への移行の意に解されているが,見落としてはならないのは,それが生産の場における〈参加〉の問題と大きなかかわりをもつことである。集権型の経済が企業の自主性を奪うことによって,勤労者の参加の余地をも失わせているとすれば,計画経済のタイプの問題は,たんなる経済の機能システムの問題にとどまらない広がりをもつ。
社会主義では,国民所得のうち,社会の成員の個人的消費(個人的消費フォンド)は,各人が社会に提供した労働に応じて分配される(能力に応じて働き,労働に応じて受け取る),というたてまえになっている。これは不労所得の廃止という意味では平等であるが,個人の労働給付能力の不平等と個々人の家族構成の違いのため,現実の所得(消費)の格差を解消することはできない。この格差は,労働がまだ生計の手段という性格を失っていないため,労働にたいするインセンティブ(刺激誘因)を維持するためにも不可避であるとされている。
〈労働に応じた分配〉は,実質的な不平等を解消しえないところから,〈ブルジョア的権利〉の残存といわれているが,社会の共同消費フォンドからの有形,無形の各種の給付(年金,多子手当など各種の手当,無償の医療や教育など)は,この実質的不平等を緩和することを目的としている。しかしながら,とりわけ高等教育の場合,高所得層が共同消費フォンドの配分により多くあずかり,それが社会階層の固定化につながるといった矛盾が生じており,共同消費フォンドの役割には一義的に規定できない複雑なものがある。社会主義における階層構造についていえば,たんなる所得格差よりも,むしろ,政治システムの構造に照応して構築されているところに,その特色がある(いわゆる〈ノーメンクラトゥーラ〉)。
〈労働に応じた分配〉は,制度化が複雑であるばかりか,国家の政策的考慮(優先度)やインフォーマルな〈労働市場〉の影響のため,その実現は多かれ少なかれ近似的なものとなるほかはない。近年,とりわけ重要なのは,経済の効率化から要請される企業実績と所得のリンクが生み出す矛盾である。労働にたいする経済的刺激の強化は,企業実績とリンクした所得格差の拡大をともなわずにはいないが,これは社会主義における伝統的な価値観としばしば矛盾し,しばしば社会的な抵抗を呼び起こすことが少なくない。したがってこの分配原則の実現は,多かれ少なかれ妥協的なものとならざるをえない。以上のように,社会主義経済の基本標識とされるものの実現そのものも,現実には少なからぬ矛盾をはらんでいることがわかる。
経済改革をモデル論的にいえば,〈モデル論と政治システム〉のところで述べた分権モデルに移行することにある。これによって企業の自律性が与えられれば,ミクロ経済主体間の連関は大きく市場化されることになるし,他方,マクロ経済的意思決定は中央に留保されるから,経済改革が〈計画〉と〈市場〉の結合という問題を軸にして転回してきたのは,怪しむに足りない。伝統的な計画経済制度を支える理論的基礎が〈計画〉と〈市場〉の非両立論であったとすれば,それが両者の両立論に変わったのは,まさに180度の転回といいうる。その背景には,スターリン批判(1956)後の経済論争があった。この論争は,まず,〈価値法則〉や〈商品生産〉のような抽象的カテゴリーをめぐる論争として始まり,1960年代半ばには〈計画〉と〈市場〉の問題に収斂(しゆうれん)されていって,経済改革に理論的基礎を提供したのである。
経済改革の問題を比較経済体制論的に考察すると,次のようにいうことができよう。資本主義経済で市場機構が果たしている機能は一般的にいえば,個別資本の自己増殖運動と競争とを通じて,社会の多様なニーズに応じた資源配分と,労働支出の節約(効率上昇)の二つが実現されることであるが,社会主義では,この二つが個別資本の利潤追求運動を通じて自動的に処理されるというメカニズムはなくなる。しかし,二つの問題自体は,経済社会の進歩を前提とする限り〈超体制的〉な課題であるから,計画化という別のかたちで解決することが要請される。ところが,計画化でこの二つの課題を解決できるかは,(1)計画化が正確な社会的労働計算に立脚しているか,(2)中央の情報処理能力の限界からして,中央と各級レベルとの間に意思決定の適切な配分がなされているか,(3)インセンティブが適切に組織化されているか,の三つに大きく左右される。伝統的な計画経済制度でこの三つが未解決のままであったことは,今日では広く知られている。(1)については伝統的な計画作成が物財バランス中心の数量計画を主としていたため,価格的な指標は経済計算用具としての機能を大きく失うことになった。現物タームの直接労働計算はいうまでもなく不可能であるから,計画化は正確な社会的労働計算に立脚したものとはいえなくなる。(2)については意思決定の過度集権により,(3)についてはインセンティブ・システムの不整合性からくる経済主体間の利害背反のために,いずれも解決に遠かった。したがって,そこにおける市場機構の克服は〈擬制〉にすぎず,市場機構に代わって先にあげた二つの〈超体制的〉課題をより効果的に処理しえたのではなかった。
以上のように考えれば,経済改革をめぐる動きが,集権・分権の問題と並んで,市場経済のカテゴリーの利用,価格機構の〈復権〉の問題をもう一つの軸として転回しているのは,当然すぎるほど当然のことである。言い換えると,それは資本主義経済にビルトインされている効率化のメカニズムの〈シミュレーション(模擬)〉であって,1930年代の〈経済計算論争〉の意味が〈東〉の世界でも前向きに評価されるようになった理由も,そこにある。
ソ連・東欧諸国の経済改革の第1波は,1960年代半ばから70年代初めにかけて展開された。ついで1972-73年ころを境に,再中央集権化ともいうべき時期に入り,経済改革は後退するが,1970年代後半期に表面化した経済困難の圧力のもとに,79年ころから新しい修正の模索が始まる。改革第1波の時期にすでに〈新経済メカニズム(NEM)〉を打ち出していたハンガリーは,この時期に改革第2波を開始し,さらに80年代後半期に向けてより大胆な第3波の改革構想を準備しつつある。他方,毛沢東の死と〈四人組〉追放後,1978年から〈四つの近代化〉を掲げた中国は,およそ20年の落差をもって経済改革の流れに合流してきたというのが,現状のあらましである。
意思決定の分権化と市場的要素の利用が経済改革の一般的方向であるといっても,両者の程度には国によりかなり大きな差異があったから,1960年代経済改革後の経済制度の類型把握の問題が生ずる。これについては,(1)1930年代から65年改革までのソ連型の中央集権システム,(2)部分的分権化システム(1960年代改革後のソ連と東欧諸国の大多数),(3)広範な分権化システム(1968年経済改革後のハンガリーのNEM),(4)社会主義的市場経済(ユーゴスラビア),という4分類法が一般的に採用されている。(1)は厳密な意味ではすでに存在しない。それでは,〈モデル論と政治システム〉の個所でいう集権モデルと分権モデルの境界線は具体的にはどこにあるかというと,第1に中央計画を分解breakdownして企業に下達する,企業レベルの事実上の直接的計画化が廃止されているか,第2に生産財が市場化されているか,の二つがあげられるのが常であり,先の四つの類型に即していえば,この基本的な境界線は(2)と(3)の間にあるということになる。したがって,(2)は伝統的経済システム(TES)の枠内における修正にすぎない,というのが通説である。
(4)のユーゴスラビアは,1965年経済改革で企業自主性は確立したものの,企業内テクノクラートの台頭で労働者自主管理は形骸化し,他方,中央計画化に代わる国民経済統合のメカニズムが欠如しているなかで市場機構に過度に依存した結果,インフレ激化や所得格差,地域格差の拡大を生み,民族間対立を激化させた。そこで,71年の憲法修正を機に,自主管理の単位をさらに下部レベル(連合労働基礎組織)に下ろすとともに,企業をこうした基礎組織の連合として再編成し,経済主体相互間の連関では,自主管理契約や社会協定による下からの国民経済的統合(〈計画〉でも〈市場〉でもない第三メカニズム)を図っていく方向をとった。しかし,これは理念としては高いものの,システムがあまりに複雑すぎ,結果としては一種の交渉経済をもたらした。これに由来するシステムの機能麻痺が70年代末期からの経済困難を加重したことが反省され,制度自体が批判的検討の対象とされつつある。
1980年代に入ってからの社会主義経済の新しい動向は,理論的には〈ジレンマ〉論の登場,制度的には〈混合経済システム〉への志向,という二つの面でみられる。
伝統的な社会主義の経済システムは,貨幣が〈受動的役割〉(ブルス)しか果たさず,個々の経済主体が剰余極大化のための努力を〈強制〉されることのない経済であるが,このシステムをハンガリーの経済学者コルナイKornai János(1928- )は,家計だけが貨幣化されていて企業セクターは貨幣化されていない,〈半ば貨幣化〉された経済ととらえている。その理由は,企業に対する〈予算制約〉が国家の〈温情主義(パターナリズム)〉により,〈ソフト〉なためである。経済の効率化のためには,企業にたいする予算制約を〈ハード〉にし,〈半ば貨幣化〉された経済システムを〈完全に貨幣化〉し,〈温情主義〉をなくす以外にないが,それは労働に応じた分配,連帯,保障,全体的利益の優先といった,社会主義の〈倫理原則〉とは矛盾せざるをえない。〈効率性〉の体系と〈社会主義的倫理〉の体系とは両立しない,というのがコルナイの〈ジレンマ〉論の要点であるが,効率体系と社会主義の価値体系とが一致する〈最適点〉がどこかに存在するという,O.ランゲ以来の分権的社会主義経済論がいだいてきた,暗黙の予定調和観が維持できなくなっているところに,今日の特徴がある。その背景としては,1970年代末期に表面化した経済困難のなかで,経済の効率化のためには〈市場志向〉をより強めざるをえないが,それにともなう社会的葛藤とも直面せざるをえなくなった,社会主義の現実があることを見落とすべきではない。
この方向がとりわけ顕著なのは中国とハンガリーであるが,同じような傾向は萌芽的ながら,他のソ連・東欧諸国にもみられないわけではない。(1)中国農業では,農家レベルの〈生産請負制〉により人民公社は事実上,解体し,小農経営のシミュレーションというべき事態が進行している。ハンガリー農業では,農業外経済活動(工業用部品生産など)への大幅な参入が認められた企業性の高い農協と組合員農家との間の委託生産(家畜など)のかたちで,共同経営と小経営(組合員の副業経営のほか,純然たる私営農場や,国営企業従業員への貸与地経営がある)の巧みな結合が,大きな成功を収めている。ソ連や他の東欧諸国でも,集団農場組合員の副業経営にたいする規制は,大幅に緩和される傾向にある。(2)ソ連の集団農場内部でも,土地と一定の生産用資産を農家グループに長期にわたって割り当て,集団農場にたいする引渡し義務を果たしたあとの剰余の処分はグループにゆだねる,という〈ブリガーダ(作業隊)〉制の実験がおこなわれている。1983年8月の〈労働集団法〉の施行により,ソ連の工業・建設企業でも同じようなブリガーダ制の実験が開始されている。これらは小経営のシミュレーションとしてとらえることができる。(3)農業外の小経営や自営業の容認など,一定の制約のもとでの〈私経済〉セクターの活性化は,中国およびハンガリーに共通する。ハンガリーでレストランなどサービス部門に広く導入されている,公有小企業の入札による〈個人経営請負制〉は,〈半私的〉セクターとみることができよう。他方,ポーランドを除き,他の諸国はこの点ではまだきわめて慎重である。(4)ハンガリーの国営企業では,選挙による従業員代表,経営陣代表,政府代表の3者構成の企業評議会を設け,これに企業長の任免,企業の長期戦略,大投資計画の承認といった,従来,所有者機能に属すると考えられていた権限の大部分を移管する方向が打ち出されている。(5)従来の経済特区に加えて新たに14の経済開発区を指定し,大規模な外資導入や合弁事業の奨励にのりだした中国の〈開放経済体制〉志向が,従来の通念の枠を大きく出たものであることはいうまでもない。これは,1920年代のソ連のネップ期に試みられたがほとんど成功しなかった,〈国家資本主義〉の現代版ともいえる性格を帯びている。
以上にみるような動きは,まだ基幹的部分の国家的所有や協同組合的所有という体制の法的枠組みを崩すものではないが,所有と経営の分離を中軸として,多様な所有と経済活動の形態を組み合わせていくという方向であり,その限りで,〈社会主義型の混合経済〉(コルナイ)と呼びうるものである。〈単一の国有・国営経済〉に無限に接近するのが社会主義経済の完成だ,という伝統的観念が捨てられて,〈実行可能〉な社会主義の経済システムとしては,この混合経済システムをどのように設計するか,という点にしだいに収斂しつつあるところに,社会主義経済をめぐる今日の問題状況の核心がある。
執筆者:佐藤 経明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
社会主義ということばはまず最初に1827年にイギリスのオーエン派の出版物にsocialismとして登場し、これとは独立して32年にフランスのフーリエ派の出版物にsocialismeとして登場した。ヨーロッパ諸国の社会思想に大きな影響を与えたのは、フランスのsocialismeなので、フランス語がヨーロッパ語系諸国の社会主義を示すことばの共通語源とされている。社会主義は、社会の富の生産に必要な財産の社会による所有と、労働に基礎を置く公正な社会を実現するという思想として生まれた。思想と運動の歴史での社会主義と共産主義の区別は厳格ではないが、一般に共産主義は、社会主義がさらに発展した平等な社会として理解されてきた。1991年のソ連崩壊、東欧の雪崩(なだれ)的な体制変革によって、思想、運動の両面にわたって揺らいでいる。
[稲子恒夫]
社会主義思想は、資本主義的な諸関係が急激に形成された19世紀前半にヨーロッパで生まれた。イギリスのオーエン、フランスのサン・シモンとフーリエたちは、失業と貧困のない社会は、生産手段が公共の所有であり、全員が労働に従事する協同社会の組織と普及により実現できると主張して大きな波紋をおこしたが、彼らの説く協同社会は、現実の資本主義社会の外に有志がつくるものであり、実生活から離れたユートピアであった。これをユートピア社会主義とよぶ。
[稲子恒夫]
19世紀のなかばから、社会主義は労働者階級の解放運動と結び付いた。さまざまな社会主義思想が現れたが、そのなかで影響力がもっとも大きかったのはマルクスとエンゲルスのマルクス主義である。彼らは社会主義を社会の発展法則、とくに資本主義の発展の必然的な結果である新社会として位置づけた。すなわち、資本主義において社会の生産力は急激に成長し、大規模生産は社会的な性格をもつが、このことは生産手段の私有、資本家による労働者の搾取という生産関係との矛盾を深め、貧困、失業、周期的恐慌をもたらす。この矛盾は、生産手段の私有の廃止とその社会化、国民経済の計画的・組織的管理によってだけ解決される。マルクスとエンゲルスは社会主義への変革は労働者階級により達成されるとして、社会主義の思想を労働者階級の大衆的な運動と結び付け、労働者階級の政治的な組織と運動の必要を説いた。
2人によると、資本主義から社会主義への移行は革命を必要とし、勝利した労働者階級は、社会主義を組織し、生産力を急速に発展させるため自分の国家を必要とする。彼らは、階級闘争は革命後も続き、旧支配階級の抵抗をなくすため、移行期にはプロレタリアート(労働者階級)の独裁が必要であると説いた。他方において彼らは、人民主権、普通選挙、議会への権力の集中(権力分立の否定)、地方自治、統治への大衆の参加、官僚主義の廃止、政治的自由などの民主主義の理念と制度は、社会主義で完全に実現されると考えた。
マルクスとエンゲルスによると、社会主義では生産手段は社会の所有に移され、もはや搾取はないが、社会の構成員への生産物の分配は、「各人はその能力に応じて働き、各人はその働きに応じて受け取る」という原則に従い行われ、そのため社会的な不平等はまだ残る。社会の生産力がさらに発展し、人々の道徳水準が向上したとき、「各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る」という共産主義の原則が実現され、そのときは権力の組織である国家がなくなるだろう。マルクス主義の社会主義は、歴史の、また資本主義の社会と経済の科学的分析に基づくものであったので、科学的社会主義とよばれた。
[稲子恒夫]
1864年に創立の第一インターナショナル(国際労働者協会)は各国の各種の社会主義者の集合体であったが、マルクスとエンゲルスが指導的な役割を果たしたので、マルクス主義の国際化に寄与した。第一インターナショナルは1871年のフランスでのパリ・コミューンの鎮圧以後、各国政府の弾圧のため活動できなくなり、1876年に解散した。
1889年に設立の第二インターナショナルは、国際労働者政党連合という正式の名称が示すように、各国の社会主義政党の連合体であった。第二インターナショナルの中心になったのは、1875年に既存の二つの政治組織の統合で生まれたマルクス主義政党であるドイツ社会民主党である。80年代から90年代にかけて他のヨーロッパ諸国でも次々と労働党、社会党、社会民主党などが結成された。これらは労働者階級に基盤を置く大衆政党であり、一般的な傾向としてマルクス主義を指導理念としていた。このような社会主義政党の発展をもたらしたのは、労働運動の発展と普通選挙の実施であり、社会主義政党が選挙運動の形で合法活動ができるようになり、国会に議席をもったことである。
これらの社会主義政党は各国の政治過程に影響を与え、労働者階級の社会的地位の向上で成果をあげたが、1871年のパリ・コミューンを最後として、ロシアなど一部を除くヨーロッパ諸国では革命的な状況がなかった。このようななかで社会主義政党のなかに右派の潮流が生まれた。ドイツ社会民主党の指導者の一人であるベルンシュタインは19世紀末の著作でマルクス主義の根本的修正を呼びかけ、社会主義政党は革命ではなく、社会的改良の積み重ねによる社会の改造を任務とすると主張して大きな反響をよんだ。第二インターナショナルはこの主張を修正主義とよび、それとの闘争を決めた。
第二インターナショナルは労働者階級の国際連帯を基本原則としたが、1914年に第一次世界大戦が起こると、社会主義政党の多数派が自国の戦争政策の支持を決めたため、各党が分裂し、第二インターナショナルも崩壊した。
[稲子恒夫]
1917年のロシアにおける社会主義革命の勝利により、社会主義は、思想と運動から一つの国での実現の過程に入り、運動としての社会主義運動も新しい段階に入った。ロシアの革命と社会主義建設を指導したのはレーニンを指導者とする左派のロシア社会民主労働党であり、同党は1919年に右派(修正主義)の社会主義政党との違いを明確にするためロシア共産党(のちソ連共産党)と改称した。同年に各国の左派の社会民主党、共産党により第三インターナショナル(共産主義インターナショナル、略称コミンテルン)が結成され、コミンテルン加入の党の名称は原則として共産党になった。第二インターナショナルは1919年に活動を再開したが、これに批判的な各国の中央派の社会民主党は別個に第二半インターナショナル(社会主義国際労働者政党連合)を結成し、両者は23年に合併して社会主義労働者インターナショナルになった。
コミンテルンと各国共産党はロシアの革命とソビエト政権を支持し、当初はロシア型の革命をヨーロッパ諸国の革命のモデルとした。これに対し第二インターナショナル系の社会民主党、社会党では右派が指導権をとり、彼らはロシアの革命とソビエト政権を批判し、革命によらない改革の路線をとったが、その際のモデルはドイツ社会民主党が政権に参加したワイマール時代のドイツ(1919~32)である。コミンテルンは植民地、従属国の解放運動に力を入れ、アジア、アフリカ、ラテンアメリカにも共産党がつくられたが、社会主義労働者インターナショナルはヨーロッパ中心の組織であった。
コミンテルンは1920年代に、すべての労働者政党が参加する統一戦線政府を社会主義への過渡的段階とする路線をとったが、成功しなかった。33年にドイツでナチスが政権をとり、共産党、社会民主党だけでなく、ナチス党以外のすべての党が弾圧され、ファシズムが樹立されたことは、社会主義運動に大きな衝撃を与えた。35年にコミンテルンは、社会主義を直接に志向しない反ファシズム統一戦線の路線を決定し、各国社会党の間にも共産党との協力の気運が盛り上がり、36年にフランスとスペインで社会党、共産党などが参加の人民戦線政府がつくられたが、フランスの人民戦線政府は38年に解体し、スペインの人民戦線政府は内戦により39年に崩壊した。
[稲子恒夫]
第二次世界大戦の末期から直後にかけて、東欧諸国では戦時に結成の反ナチスの統一戦線を基盤に共産党主導の統一戦線政権がつくられ、これらはやがて社会主義政権の性格を明確にした。アジアでもベトナム、朝鮮(北半分)、中国に共産党が中心の新国家が樹立され、これらも社会主義国家の性格をもつようになった。西欧諸国では、反ナチスのレジスタンス(抵抗運動)を基盤に戦争直後に共産党、社会党が参加する連立政権がつくられた。このような状況は社会主義運動に有利な条件をつくった。
コミンテルンは1943年に解散したが、冷戦の開始と東西ヨーロッパの間の緊張の激化のなかで、47年にソ連と東西ヨーロッパ主要諸国の共産党(労働者党)の連絡調整機関として共産党・労働者党情報ビューロー(コミンフォルム)がつくられた。しかしコミンフォルムは各国の状況の違いを無視した指導をしたので、具体的な成果をあげることなく56年に解散した。これ以後各国共産党は不定期の国際会議、個別的な交流により政策と行動の調整にあたったが、アジア地域の共産党間の交流はほとんどない。このような状況のなかで、資本主義が高度に発達した諸国の共産党は、社会主義への独自の道を追求し、その共通点は、日常的な政治活動による党の大衆的基盤の拡大と議席の増加による政治的影響の増大、他党との連合による多数派の獲得、政治的・社会的な改革の積み重ねによる社会主義への平和的移行である。各国共産党の活動には社会主義諸国の状況が影響を与えるが、各党は現存の社会主義とは違うモデルの追求をしており、とくに社会主義における野党の存在と政治的自由を積極的に認める複数主義(多元主義)を構想している。
社会党系の国際組織は1951年に社会主義インターナショナルとして再発足したが、これに加入の社会党、社会民主党の大半はマルクス主義から離れ、とくに旧西ドイツの社会民主党は59年にマルクス主義を指導理念とすることをやめた。第二次大戦後の西欧諸国の社会党、社会民主党の大半は、基幹産業の国有を支持するが、私企業の全般的社会化という社会主義の実現を目標に掲げてなく、資本主義という西側体制の枠内での経営管理への労働者の参加、労働条件などの改善に努力するという体制内の左派政党になった。西欧諸国では社会党、社会民主党の単独政権、またはその参加する連立政府がつくられたが、これにより各国の政治と経済の状況は大きく変わらなかった。
[稲子恒夫]
第二次世界大戦後、社会主義の思想は、かつての植民地、従属国である開発途上国に拡大した。いくつかの地域で西側諸国からの経済的独立と自国の社会的、経済的な後進性の克服を、外国の資本と商人が支配する私的経済の排除、国有経済の発展を中心とする社会主義的方法で実現するという思想が生まれた。マルクス主義を地域の条件にあわせて手直ししたアフリカ社会主義、伝統的な宗教を基盤とするイスラム社会主義などを指導理念とする開発途上国は、社会主義志向国とよばれる。
[稲子恒夫]
第二次大戦まで社会主義国は旧ソ連と、ソ連とだけしか外交関係がなく人口の少ない内陸国モンゴルだけであったが、第二次大戦後に社会主義国の数は大幅に増えた。1980年代のなかば、社会主義国は次の16か国であった。ソ連、東欧諸国(アルバニア、ブルガリア、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラビア)、極東諸国(中国、北朝鮮、モンゴル)、インドシナ三国(カンボジア、ラオス、ベトナム)、キューバ。当時の世界全体で社会主義国が占める比率は、陸地面積の約26%、人口の約32%、工業生産高の約40%であった。
世界社会主義体制ということばが1950年代の後半に生まれたが、これは実際と理念の中間を意味している。社会主義諸国は軍事同盟組織であるワルシャワ条約機構と、経済協力機構である経済相互援助会議(いわゆるコメコン、ロシア語の略称はセフ)という国際組織をもっていたが、前者はソ連と東欧6か国(アルバニアとユーゴスラビアを除く)だけの組織であった。コメコンには大半の社会主義国が加入もしくは準加入し、またはこれにオブザーバーを派遣している。コメコンは社会主義諸国の経済発展に貢献したが、社会主義経済統合、社会主義国際分業という課題は十分な成果をあげず、1989年の東欧の民主化、91年のソ連崩壊後で消滅した。社会主義諸国のなかでアルバニアは鎖国主義をとってきた。中国は1960年代、70年代にソ連と対立したが、70年代以後は社会主義諸国よりも日米との協力を重くみており、ベトナム戦争後はベトナムとの関係を悪化させた。カンボジアの問題について、ベトナム、ソ連と中国は対立した。
このように社会主義諸国の相互の関係がかならずしも円滑でないことの基本的な原因は、各国の歴史的、社会的な条件の違いが大きいことである。社会主義諸国は、革命後すでに60年以上たったソ連、1940年代後半に社会主義の建設を開始した諸国、50年代末、70年代なかばに社会主義国になった諸国に分かれ、社会主義体制がすでに確立されている国がある一方、社会主義がまだ建設の途上にある国、社会主義建設が始まったばかりの国があるし、経済の発展程度からみると先進国、中進国、発展途上国の三つに分かれていたからである。
社会主義諸国の大半は、西側の資本主義諸国よりも経済的、社会的にも遅れていたので、これらの国は後進性の克服のために工業の急速な発展に力を入れる社会主義工業化の路線を実行してきた。いくつかの国では工業化の資金を農業に求めるいわゆる社会主義的本源蓄積の政策がとられたため農業生産の発展に支障をきたしたし、また路線と政策の強行のため、プロレタリアート独裁の拡大解釈と個人崇拝が生まれ、伝統的な政治文化と権威主義が用いられ、民族主義も利用された。ソ連のスターリン問題、中国の毛沢東(もうたくとう)問題がその代表的な例である。
1960年代末にソ連と東欧諸国に「発達した社会主義」「成熟した社会主義」ということばが現れた。これは、社会主義が体制として安定しており、経済的にも発展水準が高い社会主義を意味し、この基準からみた発達した社会主義の国はソ連だけであり、東欧諸国は発達した社会主義への過渡期にあるとされた。しかし1980年代に入るとソ連では、ソ連は発達した社会主義の段階に入っているが、しかしその社会主義はまだ完全なものでなく、その全般的な改善が必要であるという認識が生まれた。
[稲子恒夫]
社会主義経済は基本的な生産手段、経済の基本的部門の国有を特徴としている。農業は生産農業協同組合が一般的だが、ソ連の場合、国有農場の比重が増え、生産農協であるコルホーズの役割は小さくなっていた。ソ連では個人経営は、他人を雇わないという条件で特定の手工業についてだけ認められていたが、大半の社会主義国は商業、サービス業、手工業で家族を中心とする個人経営を認めていた。農村部では勤労者が家族単位の零細な副業経営をもち、野菜などの生産で大きな役割を占めていた。個人の生活を支えているのは労働により得た所得であり、日常生活に必要なものは個人の所有だが、都市部の住宅は原則として国有市営または協同組合所有の集合住宅であった。
社会主義経済の中心は国有経済だが、たいがいの社会主義国では国有の企業またはその統合体は政府機関が直接に管理する国営ではなく、独立の経営単位である。国有経済の管理については複数の方式(モデル)があるが、そのなかで1930年代にソ連でつくられた制度が長い間共通のモデルになっていた。このモデルによると、国有の企業は政府機関の指導のもとに、政府の計画担当機関が示す各種指標に基づいて経営を行い、企業があげた利潤の大半は国に収められて、財政投資に使われる。政府機関が企業活動の基本的なことについて決定権をもつこの中央集権的な方式は、工業化と国民経済の外延的発展に大きく寄与してきた。このことは、社会主義諸国と発達した資本主義諸国の工業総生産高の1950年から74年までの年平均成長率が、前者が10.1%であり、後者が5.2%であったことから知ることができる。しかし製品(とくに消費物資)の質と多様化、技術革新の導入による新製品の開発では、社会主義諸国は西側諸国より遅れていたし、一部の社会主義国では60年代以後成長率が下がっており、とくにポーランドでは80年に経済的困難から政治的危機が生まれて、他の社会主義国に大きな衝撃を与えた。
このことは、従来の国有経済の管理方式が、生産の質の向上と多様化、科学技術の成果の導入による生産の集約化、国民経済の内包的発展が課題となっている状況にあわなくなっていることによる。1960年代のなかばからソ連と東欧諸国では、企業の自主性を拡大し、政府による計画化と市場原理を最適な形で結合する方向での経済改革が行われてきたが、多くの場合改革が中途半端であったため成果をあげなかった。そのため80年代に入ると経済管理の根本的な改革が日程にあがった。旧ユーゴスラビアは上記の方式を官僚主義、国家介入主義(エタティズム)とよび、企業またはその内部の経済組織に完全な自主性を与え、企業活動に市場原理を全面的に導入した。この市場社会主義は経済活動を活発にした反面、恒常的な物価上昇、慢性的失業などを生み出した。
旧ユーゴスラビアは国有の概念を否定し、企業をその従業員の自主管理にゆだねるという自主管理社会主義を指導原則としてきた。他の大半の国では、企業のとくに重要な事項の決定権を政府機関またはその任命する企業幹部に残しながらも、従業員集団の経営管理への参加の範囲を拡大し、そのなかで社会主義的自主管理という概念が生まれた。このように生産単位の自主管理を重視する状況下に、多数の社会主義国で、企業単位またはその内部の組織単位の勤労者の集団を、社会主義社会の基本的な単位、細胞とする考えが生まれた。
かつて社会主義の思想と運動では、社会主義になれば生産力と生産関係との矛盾がなくなり、経済はすべて順調に発展するという考えが支配的であったが、社会主義にも生産力と生産関係の矛盾があり、経済の発展のためには生産関係の諸制度の適時で適切な改革が必要であることを示した。そして1980年代後半に至り、東欧の民主化と、その後の91年のソ連崩壊により、多くの国で社会主義の放棄が行われた。
[稲子恒夫]
社会主義諸国で政治の中心にあるのはマルクス主義を指導理念とする各国共産党である(党名は国により違いがある)。いくつかの国では他の政党も与党として活動しているが、実際の役割は小さい。国により違いがあるが一般的な傾向をみると、共産党の中央機関は、党の下部機関、政府機関、研究機関などの協力のもとに、国の長期的な政策を長期計画の形で決め、当面の重要問題の政策も決定する。党の決定は国家機関と社会団体により具体化され、実施されるが、その際党の下部機関と党員は決定の実施について積極的役割を果たす。以上の過程には党の内外の種々さまざまな要因が作用し、それぞれ独自の利益をもつ社会階層と社会集団がこの過程に影響を与えている。社会主義諸国の経験は党の指導部による独断、客観的条件の過小評価、党員と一般国民の政治的・社会的意識の軽視、社会科学の成果の無視、党内民主主義と社会主義民主主義の侵害は、一時的には成功するが、長期的には混乱と後退をもたらすことを示した。マルクス主義は近代的合理主義の所産だが、実際にはいくつかの国で党の最高指導者を神格化し、その言動を政治の絶対的指針とするという権威主義的な個人崇拝が生まれたが、個人崇拝は指導者の死亡とともに崩れている。
共産党は党員だけの組織であり、国家は全人民の包括的組織だが、実際には党機関の機能と国家機関の機能の混同、党機関による国家機関の代行という現象がしばしばおきている。一部の社会主義国はこの現象を正当化しているが、全体としてはこのような事態を否定的に考え、党機関の機能と国家機関の機能の明確な区分の確立に努めている。
社会主義国家の中心的な権力機関は、公選による中央と地方の議会である。議員の選挙の重点は候補者選出の過程に置かれている。一般的には各選挙区で定数と同数の候補者だけをたて、投票でその信任を問う方式が採用されているが、定数以上の候補者をたてて最終的選択権を選挙人に与える方式をとる国が多かった。議員の大半は本来の職業をもつ勤労者なので、議員活動に専念できない。そのため議会により選ばれる政府その他の執行機関、その指揮を受ける行政機構が実際の統治で果たす役割は大きく、その官僚主義と非能率が絶えず問題になっている。そこで議会と住民による監督が強化され、社会団体代表と住民の行政への参加が拡大しているが、根本的には行政の機能の下部機関または社会団体への大幅な譲渡、住民に直結する地方の権限の拡大、中央の機構の整理統合による行政の効率化が課題になっている。
大半の社会主義国では労働組合、青年団体などの果たす役割は大きい。これらの団体は政策の形成に参加し、代表が議員に選ばれ、各種の行政委員会と審議会にも代表が入っているが、社会団体は全国的な大組織なので、一般勤労者の声が日常の政治に直接に反映するわけではない。そこで多くの社会主義国で、工場などの企業の勤労者の集団を社会主義の政治制度の基礎に置く改革が進められてきた。たとえば旧ユーゴスラビアでは、議員は職場単位で選出の者と、地域で選出の者との2種類からなっていた。旧ソ連では、職場単位の集会が選挙の候補者を選び、その適格性を検討し、当面の政治問題を検討する場所となっていた。このような職場の重視は、ハンガリーでは工場民主主義とよばれていた。しかし、1989年に起こった東欧の民主化と、91年のソ連崩壊で大半の社会主義国で社会主義が放棄された。
[稲子恒夫]
大半の社会主義国の憲法は個人(市民)の権利と自由について詳しく定め、その尊重を強調している。社会主義諸国の従来の多数意見によると、個人の権利の中心になるのは、労働の権利、労働にふさわしい給与を受ける権利、有給休暇を含む休息の権利、社会保障を受ける権利、無料で医療を受ける権利、住宅の権利、無償の教育を受ける権利などの社会的・文化的権利である。社会主義の成果はこれらの権利に現れており、言論・出版の自由などの政治的自由は上記の権利を保障する体制の強化に奉仕するものである。しかし社会主義における個人の政治的権利を第一義的に重視する者もおり、彼らは選挙権を含む国家と社会の業務に参加する個人の権利(旧ユーゴスラビアでは自主管理の権利)を人権体系の中心に置いている。第三の見解をとる者は、参加の権利とは別に言論・出版という表現の自由が独立の価値をもつことを強調し、その保護の強化を提案している。
大半の社会主義諸国の実際では、政治についての個人の考えは、その属する集団や団体を通して組織的に全体に反映する方法がとられており、集団や組織を離れて個人の意見が自由に流通し、社会的な影響力をもつことは制度的に保障されていない。個人の意見の形成の材料になるのは情報だが、政治にかかわる重要情報は組織内で流通するが、公表されないことがある。1970年代からいくつかの社会主義国で以上の状況の見直しが始まり、情報公開、情報に対する権利、知る権利が憲法や共産党の決定に登場した。また世論という制度化されていない国民の意見を重視する傾向が強まっていった。1980年代には多くの社会主義国で、社会主義的民主主義の発展という政治の改革が課題になったが、80年代後半になると東欧で民主化の動きが強まり、多くの国で社会主義が放棄され、91年にはソ連の解体に至った。
[稲子恒夫]
『G・リヒトハイム著、庄司興吉訳『社会主義小史』(1979・みすず書房)』▽『藤井一行著『社会主義と自由』(1976・青木書店)』▽『R・メドヴェーデフ著、石堂清倫訳『社会主義的民主主義』(1974・三一書房)』▽『R・セルツキー著、宮鍋幟・久保庭真彰訳『社会主義の民主的再生』(1983・青木書店)』
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この言葉はオーウェンに始まるといわれるが,社会的不平等の根源を私有財産に求め,それを廃止ないし制限して全体の福祉を図ろうとする思想をいう。古くはプラトンやモアが思想的先駆者とされるが,実際の運動として発展するのは産業革命で労働者階級が発生してからである。オーウェン,サン・シモン,フーリエが代表者で,のちマルクスの思想が主流となった。これと並んでプルードン,バクーニン,クロポトキンのアナーキズムもあり,19世紀末にはベルンシュタインの修正主義が現れ,今日の西ヨーロッパの社会民主主義に発展した。20世紀にはロシアでレーニンによって共産主義となって,世界に拡大した。
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生産手段の公有化を目標とする思想およびそれにもとづく運動をいい,1848年のマルクス,エンゲルスの「共産党宣言」以後おおいに発展した。日本では1898年(明治31)社会主義研究会,ついで社会主義協会が結成された。1901年に社会民主党が誕生し,平和的な社会主義の実現をめざすが即日禁止。03年議会主義にのっとった社会民主主義を基調とする平民社が創立され,日露戦争に際しては反戦論を展開した。06年日本社会党が結成されたが翌年結社禁止。10年の大逆事件以後,社会主義の取締りは強化された。ロシア革命の影響をうけて20年(大正9)日本社会主義同盟が,また22年コミンテルン日本支部として日本共産党が結成された。28年(昭和3)の普通選挙を機に共産党は大弾圧をうけ,以降転向もあいついだ。32年に結成をみた社会大衆党は,生産手段の公有化をめざしたが,その推進主体を軍部に見出したためにしだいに批判勢力としての性格を失い近衛新体制運動の推進母体となった。第2次大戦後,日本共産党が再建され,日本社会党も結成をみた。55年体制が続くなかで,社会党の存在は憲法改正を阻止する勢力として一定の支持を得るが,高度経済成長下の利益配分政治の横行,大衆社会状況の進展によって支持層を大幅に減らした。91年のソ連の崩壊や,自民党と新党さきがけを連立与党とした社会党村山内閣の治政ぶりも社会主義あるいは社会主義政党の混迷を加速した。
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…(1)1898年に〈社会主義の原理と之を日本に応用するの可否を考究する〉目的で設立された社会主義研究会を,1900年1月に社会主義を〈日本に応用すること〉を目的に改組した日本最初の社会主義者の組織。安部磯雄を会長に,片山潜,幸徳秋水らを擁して社会主義の研究と啓蒙にあたり,平民社と一体となって草創期の日本社会主義に大きな足跡を残したが,日露戦争中の04年11月に警察当局から解散を命じられた。…
…1915年9月,売文社から堺利彦によって創刊された社会主義啓蒙雑誌。月刊。…
…1920年代初頭の社会主義者の大同団結組織。米騒動後,急速に労働運動,普選運動の勢いが高まるなかで,〈冬の時代〉を強いられていた社会主義運動が活性化してきた。…
…堺利彦設立の代筆業兼出版社。堺は1910年赤旗事件の刑期を終えて出獄した際,大逆事件の弾圧下で生活難にあえぐ社会主義者たちを支えるために売文社を創立した。彼は雌伏の時期にここにたてこもり〈文を売って口を糊するにまた何のはばかるところあらん〉と広告して,幸徳秋水亡きのち社会主義運動の中心的役割をめざした。…
…主筆の片山潜のほか安部磯雄,高野房太郎,横山源之助,村井知至らが執筆し,組合運動発展の武器となった。初期の論調は労資協調に基づく改良主義的なものだったが,99年には〈社会主義欄〉が新設されるなど,しだいに社会主義や労働者政党の問題にも関心をよせるようになった。1901年12月21日,100号を最後に《内外新報》となったが,翌年4月から雑誌《労働世界》として復刊した。…
…《近代画家論》は60年第5巻で完結したが,それ以前は純粋な芸術美を論じてきた彼は,このころから機械文明とそれがつくり出す社会悪に反対する活動に献身するようになった。《この最後の者たちに》(1862)は,彼の思想の転機を画した論文で,自己利益でなく自己犠牲を基本とした経済学を説き,新しい社会主義ユートピアを描いたものであるが,当時は一般の嘲笑を買うだけであった。しかし彼はその後も社会主義の実践活動を続け,労働者のための大学創設にも尽力した。…
※「社会主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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