翻訳|Tatar
モンゴル系の遊牧部族。その本拠地はモンゴル東部,セレンゲ,ケルレン川流域。その名は8世紀前半に建てられた突厥(とつくつ)碑文に初めて現れ,九姓タタール,三十姓タタール(トクズ・オグス)と称されている。また唐代の文献にもウイグルの支配下にあった韃靼(だつたん)の名が見えている。840年ウイグルが滅亡すると,モンゴリアには統一政権は生まれず,タタール部をはじめとする大小の遊牧集団が勢力争いを繰り返した。10世紀初め契丹族が勃興し,契丹帝国(遼)を建国するとともにその勢力をモンゴリアに広げると,タタール部はその支配下に入った。遼ではタタール部を阻卜(そぼく)と呼んだ。12世紀初め,中国北部では遼に代わって金が建ったが,その支配はモンゴリアには及ばなかった。モンゴリアでは再び遊牧集団の争いが激化したが,タタール部はモンゴリア東部で最有力集団になるとともに,その首長はハンと称するようになった。それとともに南の金に侵入略奪を繰り返したが,のちに金の招諭をうけ朝貢するようになった。またタタール部の中には金に下り,その北辺防衛の任にあたるものもいた。金では遼をうけて,タタールを阻(そぼく)と呼んだが,宋は韃靼(一つに黒韃靼)と呼んでいる。
12世紀の半ばタタール部の支配下にあったモンゴル部が独立し,〈普(あまね)きモンゴル国〉を建てたが,のちにタタール部はこれを攻撃して壊滅的打撃を与えた。しかし12世紀末,モンゴル部にテムジン(チンギス・ハーン)が現れモンゴル部を再統一し,さらには宿敵タタール部を破ってその支配下に入れた。かくてタタール部はモンゴル帝国の一部に組み入れられることになった。のちオゴタイ・ハーンの時代に行われた第2回目の西方遠征において,バトゥの率いるモンゴル軍はロシアから東ヨーロッパに兵を進めた。この軍にはタタール族が多くいたという。またこのモンゴル軍は当時のヨーロッパに大きな恐怖を与えたため,ヨーロッパ人はタタールとギリシア語のタルタロスtartaros(〈地獄〉の意)とをかけて,モンゴルをタルタルTartarと呼ぶようになった。中国においてもモンゴルのことを韃靼と呼ぶ習慣が続いたが,本来のタタール族は以後力を失い,明代においては内モンゴルのチャハル部やトゥメット部を構成する小集団としてその名が見えるにすぎない。
執筆者:森川 哲雄
上述のように,タタールは初めは北東モンゴリアなどにいたモンゴル系遊牧民の北方グループの名称であったが,のちにはモンゴル高原に入ったトルコ系諸族をも含む遊牧騎馬民族の総称となった。西アジアやヨーロッパでも,13世紀にモンゴル世界帝国が成立したころから,モンゴル人だけでなく,その支配下のユーラシアのトルコ系諸族全体をあわせて,タタールまたはタタール・モンゴルと俗称するようになった。したがって,タタールの呼称は,特定の人種・民族の学問的名称であるよりは,農耕的文明世界からみてきわめて異質なアジア的遊牧社会の人々を,差別意識,違和感,ときとして恐怖感をもって総称する際に用いられる場合が少なくない。
ヨーロッパの最東部にあって,タタールともっとも交渉の深かったロシアの歴史に即していえば,タタールはまずトルコ語系統の諸族であって,10世紀に,先住民のフィン・ウゴル語系の諸族とともに,ボルガ・カマ川流域のブルガール国をつくった人々として知られている。キプチャク・ハーン国が解体した15~16世紀には,カザン,アストラハン,クリミア,シベリアなど,南ロシアからシベリアにかけて,いくつかのタタールの国家が誕生し,それぞれ異なるタタール人の民族体も現れてきた。このうちのカザン・ハーン国は,15世紀前半に,それまでのボルガ・カマのブルガール国にかわってその地域と住民を支配するようになった国家で,その領域には,カザン・タタールを中心に,バシキール,チュバシ,マリ,モルドバ,ウドムルトなどの諸民族体が派生した。
1552年,ロシアのイワン4世(雷帝)がカザンを占領し,58年にカザン・ハーン国全土を併合するに及んで,これら諸族はロシア帝国の支配下に組み入れられた。このころ,西シベリアでは,モンゴル系のクチュム・ハーンが,トルコ・モンゴル諸族を征服してトボリスクに近いシビルを中心にシビル・ハーン国をつくり,ロシア人植民地を攻撃してイスラムを広めるなど,一時は勢力をのばしたが,コサックの首長エルマークの強襲をうけたのち,ロシア軍に敗れて殺害され,ハーン国も滅んでロシアのシベリア侵攻が始まった。しかし,タタールはその他の原住民と同様に,ロシア人植民者,軍隊,教会勢力に対する抵抗をやめず,ロシア政府は各地に要塞を築き,防備線を強化しなければならなかった。タタールは,17世紀のラージンの乱,18世紀のプガチョフの乱などにも進んで参加したほか,19~20世紀の革命運動においても,地域,住民ともども,大きい役割を演じた。
旧ソ連邦および現在のロシア連邦で,行政的にタタール人と称される人々は,約665万(1989)で,トルコ語系統の言語とイスラムを基本としながら,地域によってかなり多様である。以下,主要なものをあげる。(1)カザン・タタール タタール人口の半数以上を占め,タタールスタン,バシコルトスタン両共和国に多く住む。混血による白人種型の人々が半数以上を占め,農業をおもな生業とする。ミシャリ,カシモフの両タタールもほぼ同類で,他に,16~18世紀にキリスト教(正教)に改宗したクリャシェンがいる。(2)アストラハン・タタール キプチャク・ハーン国のノガイ・タタールの子孫。ボルガ下流の三角州地帯に住み,天幕,二輪荷馬車など遊牧民の伝統を残す。人種的にはモンゴロイドで,ノガイ語を話す。(3)クリミア・タタール 約30万人前後。ステップの彼らはノガイの子孫であり,南岸のクリミア・タタールは,小アジアのトルコ人の子孫でそれぞれ異なる。1944年ナチス・ドイツへの協力を理由に,約20万人がウズベキスタンその他に強制移住させられ,クリミア自治共和国は廃止された。67年にソ連政府はようやくその無実をみとめたが,粘り強い合法闘争にもかかわらず,原住地への帰還は,なかなか実現しなかった。ペレストロイカ以後ようやく帰郷がはじまった。(4)シベリア・タタール 13世紀以前に先住のサモエード人,ウゴル人と混交し,キプチャク・ハーン国解体後は中央アジアからの移住者(シベリアのブハラ人)やカザン・タタールなどを加え,種族的には複雑化した。現在約10万。トルコ語系のキプチャク語を話し,イスラムのスンナ派。チュメニ,トムスク,オムスク付近に多く,西シベリア・タタールともいう。大部分は農民で,一部が都市の労働者,知識人である。
執筆者:田中 陽児
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ヴォルガ・ウラル地方のトルコ系ムスリム民族。タタールスタン共和国の主要な民族で,ロシア連邦内にも広く居住。歴史的にはカザン・ハン国の遺民で,1552年のイヴァン4世による征服以来ロシア化の抑圧を受けた。18世紀末からはロシア‐中央アジア間の通商をになって,経済・文化的な復興を実現。ロシアでは長く征服者モンゴル人の異名としても用いられた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…人口2万2300(1989)。ハンティ族は,北群(オビ川流域の河口からシェルカリまで),南群(オビ川沿いにさらに南下してイルティシ川流域のトボリスクまで),東群(ハンティ・マンシースクからオビ川中流域沿いに支流のバスユガン川流域まで)に三分され,文化的にも北群はマンシ族に,南群はタタールに,東群はセリクープ族により近い。しかしアス・ヤフAs‐jax(ハンティ語で〈オビ川の民〉を意味する)に由来する旧称オスチャークがかつてはハンティ族だけでなく,マンシ族の一部やセリクープ族(旧称オスチャーク・サモエード),ケート族(旧称エニセイ・オスチャーク)をも包摂したように,そこには言語的差異を超越する文化的共通性(例えば,川筋に半定住する狩猟・漁労民)が反映されていると思われる。…
…契丹は6世紀後半に突厥(とつくつ)の支配をうけたもののだいたい独立を保ち,10世紀初めに契丹帝国を,また中国の華北に進出して遼を建国した。遼の滅亡後,モンゴリアには,モンゴル系の部族としてタタール,ケレイト,フンギラト,メルキト,ウリヤンハイ,オイラート,モンゴル等の名が見られる。このうちタタール(韃靼)の勢力が強かったことから,中国ではモンゴリアのことを韃靼(だつたん)と呼ぶようになった。…
※「タタール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新