タタール(英語表記)Tatar

翻訳|Tatar

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「タタール」の意味・わかりやすい解説

タタール
Tatar

(1) 8世紀初めにオルホン川流域に建てられた突厥碑文に初めてタタールの名がみえるが,8世紀中頃バイカル湖南東方面に居住しキルギス族を圧迫,オルホン川流域に進出した九姓タタールと,それ以東フルンブイル地方にわたって遊牧していた三十姓タタールとがあり,10世紀に両者は契丹支配下に入った。金代にいたり後者に属していたモンゴル部が興起,1202年チンギス・ハンがタタール部族討滅モンゴル高原を統一すると,他部族もモンゴルを称したが,中国の宋人はなおモンゴルの遊牧諸族を韃靼と称した。 (2) 明代に滅ぼされて北走した元朝の子孫は,西方のモンゴル系の別部オイラート (瓦剌)を打ち破って,内モンゴルに覇権を確立した。明代の中国人はそれら元朝の子孫を韃靼と呼んだ。タタールは明初何度も明軍の攻撃を受け,オイラートにも圧迫され衰退したが,15世紀末ダヤン・ハン (達延汗)がタタールを統一,それを基盤に 16世紀中頃アルタン (俺答)は明に侵入して苦しめ,オイラートを外モンゴルから一掃,青海地方をも征服し,これらの地方へモンゴル族が移住,それが今日のモンゴル族の分布につながった。またチベットに遠征し,ラマ教のモンゴル族への流布契機をつくったのも彼である。 (3) 13世紀にモンゴル族の侵入を受けたヨーロッパ人は彼らを悪魔 (タルタル) と称し,モンゴルとその支配下のチュルク系民族をタルタル,タタールと呼び,以来今日でも旧ソ連邦のヨーロッパ・ロシア,カフカス,シベリアのチュルク系住民はタタール人と総称されている。

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