トンキン事件(読み)とんきんじけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「トンキン事件」の意味・わかりやすい解説

トンキン事件
とんきんじけん

1873年、フランスとベトナム(阮(げん)朝)の間に生じた抗争。1860年代に南部のコーチシナを占領したフランス海軍は、メコン川をさかのぼって雲南に至ることは、瀑布(ばくふ)があり不可能なことを発見すると、北部(トンキン)の紅河(ソンコイ川)ルートに関心を移した。72年末、貿易商ジャン・デュピュイは、雲南で起こっていたイスラム教徒反乱(パンゼーの乱)の機をとらえて、清(しん)朝官憲に武器を売却しようと、ベトナム側の禁令を無視して紅河を遡行(そこう)した。73年4月、雲南よりハノイに戻ってきたデュピュイと、ベトナム当局との間に紛争が生じた。コーチシナ総督デュプレは、調停のために海軍大尉ガルニエをトンキンに派遣した。紅河の開放を強硬に要求するフランス側は、ベトナムの拒絶にあうと、11月20日ハノイ城を攻略し、ついでデルタの主要都市を次々に占領した。しかし12月21日ガルニエはハノイ近郊で、阮朝に帰順していた劉永福(りゅうえいふく)の黒旗(こっき)軍に敗れ戦死した。清仏戦争直後で海外活動に消極的だったフランス政府は、フィラストルを派遣して74年3月第二次サイゴン条約を結び、事件を収拾した。

[白石昌也]

『桜井由躬雄・石澤良昭著『東南アジア現代史Ⅲ』(1977・山川出版社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のトンキン事件の言及

【トンキン】より

…17世紀以降,ハノイに拠ったチン(鄭)氏政権をヨーロッパ人がトンキン王国としたことから,北部をトンキンと呼ぶことが一般化した。特に1873年,ソンコイ川(紅河)ルートをねらってデュピュイ,ガルニエらが北部デルタを占拠し,黒旗軍に敗れた事件はトンキン事件としてヨーロッパに喧伝された。84年のフエ条約と,87年のインドシナ連邦の成立によって,北部は正式にトンキンとしてベトナム人の経略(皇帝の代理職)の支配するフランスの保護領となり,さらにドゥメール総督の時代に経略制が廃されてフランス人理事長官に統治されるようになった。…

※「トンキン事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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