サッカー(読み)さっかー(英語表記)soccer

翻訳|soccer

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

サッカー(フットボール)
さっかー
soccer

11人ずつの2チームに分かれ、ボールを手を用いずに相手のゴールに入れて得点を競い合う球技。アソシエーション・フットボールassociation footballの別名。associationの短縮型socにcerをつけてできたことばとされる。日本ではフットボール、ア式蹴球(しゅうきゅう)、蹴球などの名でよばれてきたが、1960年(昭和35)ごろからラグビーフットボール、アメリカンフットボールと区別し、呼称をはっきりさせるためにサッカーとよぶようになった。これに倣って、従来の日本蹴球協会も1974年に財団法人格を取得する際に日本サッカー協会と改称した。しかし、アメリカやアイルランドなど一部の国を除く世界中の国ではフットボールといえば、アソシエーション・フットボールを意味する。
 世界でもっとも盛んなスポーツで、2011年現在、サッカーをその国の主要なスポーツとする国と地域は208に達し、ファンの数は35億人以上といわれている。[岡野俊一郎]

歴史

丸いものを足でけることは人間の本能ともいえ、サッカーに似た遊びは紀元前のギリシアやローマ時代の壁画にみることができる。アジアにおいても中国の伝説上の帝王である黄帝の時代に同じような遊びをしたという記録がある。
 中世、近世では、北ヨーロッパのバイキングが戦った相手の首領の首をけりあったり、球形のものをつくり、村対村でけりあう原始的なフットボールが行われたが、あまりに乱暴なためしばしば禁止令が出されている。たとえばイギリスでは1314年エドワード2世が、1401年にはヘンリー4世が都市におけるフットボールの禁止令を出している。
 スポーツとしての型が整ってきたのは1800年代である。イングランドのエリートの若者の学校であるパブリック・スクールで行われていたフットボールは、学校ごとに独自のルールで行われていた。1848年ケンブリッジ大学フットボール・クラブが共通ルールを提唱し、1863年ロンドン市内と近郊の11クラブが集まり、世界最初のサッカー協会であるイングランド・サッカー協会The Football Association(The FA)が設立された。なお、パブリック・スクールの一つであるラグビー校でフットボールの試合中に少年エリスWilliam Webb Ellis(1806―1872)がボールを手で持って走り出した(1823)ことから生まれたラグビーフットボールが協会を設立したのは1873年である。イングランド・サッカー協会の設立に刺激され、1873年にスコットランド、1876年にはウェールズ、1880年には北アイルランドにサッカー協会が設立された。イギリスに生まれたサッカーは以来ヨーロッパ各国に普及しただけでなく、各国が植民地政策の手段として利用し、ルールが簡単であり、ボール1個で大勢が楽しめることから、世界中に急速に普及した。
 1904年には国際サッカー連盟Fdration Internationale de Football Association(FIFA(フィファ))がフランス人のジュール・リメJules Rimet(1873―1956)の提唱で創設され、最初はこの世界組織に反発していたイギリスの4協会も1905年にイングランド、1910年にスコットランドとウェールズ、1911年には北アイルランドが加盟。名実ともにプロ、アマチュアを含めて世界のサッカーを統轄する組織になった。1930年7月にはFIFAが主催するサッカーの世界選手権であるワールドカップの第1回大会がウルグアイで13チームが参加して開催された。なお、オリンピックでサッカーが公式競技となったのは1908年の第4回ロンドン大会からである。[岡野俊一郎]
日本の歴史

男子
日本にサッカーが紹介されたのは、イングランド・サッカー協会が設立されてわずか10年後の1873年(明治6)、イギリスのアーチフォールド・ルシアス・ダグラスArchibald Lucius Douglas(1842―1913)海軍少佐が東京築地(つきじ)の海軍兵学寮の教師として生徒に教えたのが始まりで、1年後に工学寮教師のイギリス人ライメル・ジョーンズが学生に教えた。1903年(明治36)日本初のサッカー技術指導書『フートボール』が東京高等師範学校蹴球部から出版された。1917年(大正6)第3回極東選手権競技大会が東京の芝浦(しばうら)で開催され、日本は蹴球に参加、これが最初の国際試合である。1919年にイングランド・サッカー協会からカップが贈呈されたのを機に、1921年9月10日に大日本蹴球協会が創立、1929年(昭和4)にFIFAに加盟した。1936年の第11回オリンピック・ベルリン大会に初出場し優勝候補のスウェーデンを3対2で破った。
 第二次世界大戦後、敗戦国の日本はFIFAから除名。1950年(昭和25)に復帰し、1951年インドのニュー・デリーで開催された第1回アジア競技大会に代表チームを派遣、銅メダルを獲得した。1954年アジアサッカー連盟Asian Football Confederation(AFC)に加盟。1956年第16回オリンピック・メルボルン大会では1回戦で地元オーストラリアに0対2で敗退した。1960年第17回オリンピック・ローマ大会に予選で敗れたことにより、4年後の1964年第18回オリンピック・東京大会を控え日本蹴球協会(大日本蹴球協会が1947年に改称)は西ドイツからプロ・コーチのデットマール・クラマーを招き強化を図った。その結果、オリンピック・東京大会では日本は強豪アルゼンチンを3対2で破りベスト8に進出。クラマーのアドバイスに従い1965年に日本アマチュア・スポーツ界初の全国リーグ、日本サッカーリーグJapan Soccer League(JSL)が創設され、同年6月にはスコットランドのプロサッカークラブ、スターリング・アルビオンFCが来日し、初のプロ・チームとの対戦が実現した。1968年第19回オリンピック・メキシコ大会ではグループリーグを無敗で勝ち抜き、準決勝は優勝したハンガリーに0対5で敗れたが、3位決定戦で地元メキシコを2対0で破り銅メダルを獲得した。これは世界大会におけるアジア唯一のサッカーでのメダルである。
 しかし、毎年1月に東京の国立競技場で行われる全国高等学校サッカー選手権大会の決勝戦には満員の観客を集めるものの、その後は他のアジア諸国のレベルアップとともに日本のオリンピック予選の突破は困難となり、JSLの観客も減少し、低迷期が続いた。この状態を脱するためにはプロフェッショナリズムの導入が不可欠と判断したJSLは1988年に活性化委員会を設立、それを受けて1989年(平成1)財団法人日本サッカー協会Japan Football Association(JFA。日本蹴球協会から1974年に改称。2012年公益財団法人に移行)もプロリーグ検討委員会を設置。1991年、日本のサッカーを劇的に変えた社団法人日本プロサッカーリーグJapan Professional Football League(通称Jリーグ。2012年公益社団法人に移行)が設立され、1993年5月15日に国立競技場に6万を超える観衆を集めて最初のプロ試合が行われた。
 Jリーグは、地域住民、地方自治体、周辺の複数の企業の協力という三位一体(さんみいったい)方式で地域に根ざしたクラブチームづくりを目ざした。発足当時はヨーロッパや南米からトップクラスの選手の参加もあり、競技場に多数の観客が殺到し選手のレベルも急速にあがったのみならず、各クラブチームにサポーター(支援者)が現れ、日本代表チームのサポーター誕生につながった。
 オランダのハンス・オフトHans Ooft(1947― )を監督とした日本の代表チームは、プロリーグの誕生により急激にレベルアップし1992年のAFCアジアカップで優勝。1994年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会の予選最終戦では、ロスタイムの失点により本大会の出場権を逃し、これが「ドーハの悲劇」と語られたが、この試合のテレビ中継は50%の高視聴率を記録し、日本国民のサッカーへの関心の高さを示した。
 一方、オリンピック・サッカーでは1996年第26回オリンピック・アトランタ大会で28年ぶりに出場した日本チームは優勝候補のブラジルに1対0で勝利したが、ベスト8進出はならなかった。これ以降、オリンピックには2012年(平成24)第30回ロンドン大会まで連続5回出場を記録している。
 日本の実力がアジアのトップレベルに達したことにより、サポーターをはじめ多くのファンの目はワールドカップに向かった。1998年フランス大会に初出場を果たした日本は岡田武史(おかだたけし)監督のもと善戦したが3連敗でグループリーグで敗退。2002年のワールドカップ史上初の日韓共催となった大会はフランスのフィリップ・トルシエPhilippe Troussier(1955― )が監督を務めた。トルシエは1999年のFIFAワールドユース選手権(現、FIFA U-20ワールドカップ)では日本チームを準優勝、そして2000年のAFCアジアカップでは優勝に導いたが、ワールドカップ本大会では決勝トーナメント1回戦でトルコに0対1で敗れベスト16で終わった。しかし、日韓共催ワールドカップの国民の関心は高く、日本の試合のテレビ視聴率は60%を超え、さらに心配された大会の収支も60億円を超える収益を上げた。
 2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会はブラジルのジーコを監督として戦ったが、1分け2敗でグループリーグで敗退。2010年の南アフリカ大会は病気で倒れたイビチャ・オシムIvica Osim(1941― )の後を受けて再度監督に就いた岡田武史のもと、決勝トーナメントに進んだが、パラグアイにペナルティー・キック(PK)戦で敗れ、ベスト8進出はできなかった。[岡野俊一郎]
女子
日本では女子サッカーが正式に認められたのは1979年(昭和54)、日本女子サッカー連盟が承認され、初の日本選手権である全日本女子サッカー選手権大会が開かれてからである。第1回大会は、関東代表FCジンナンと関西代表高槻(たかつき)女子フットボールクラブ戦が行われ、2対1でFCジンナンが初代チャンピオンになった。当時は選手数が少ないため8人制の試合であった。
 1989年(平成1)に日本の経済の好況に支えられ、全国リーグの日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)が発足。海外の優秀選手の参加により日本のレベルは向上し、日本女子代表チームはアジア競技大会では1990年の北京(ペキン)大会、1994年の広島大会で連続銀メダルを獲得した。また、1991年FIFA初の女子ワールドカップ(FIFA女子世界選手権)の出場権を獲得、1995年の第2回スウェーデン大会ではブラジルを破って初勝利を収めた。しかし、1996年のアトランタ大会からオリンピックの正式競技となった女子サッカーに出場したが全敗で終わり、また、1999年には経済不況によりスポンサーが撤退したためL・リーグは中止され、東西2リーグに再編された。
 2004年(平成16)日本女子代表チームは「なでしこジャパン」の愛称で第28回オリンピック・アテネ大会に出場、ベスト8に進出しフェアプレー賞を受賞したことから、女子サッカーは活気を取り戻した。2008年2月、佐々木則夫(のりお)(1958― )監督に率いられたチームは、中国・重慶(じゅうけい/チョンチン)での東アジア女子サッカー選手権で強豪北朝鮮、中国、韓国を破り初優勝。同年8月の北京オリンピックでは準々決勝で中国を2対0で破り、準決勝に進んだが、アメリカに2対4で敗れ、3位決定戦でもドイツに0対2で敗れメダルを逃した。
 2010年L・リーグを再編し、10チームによる「プレナスなでしこリーグ」が誕生した。2011年ワールドカップ・ドイツ大会で日本女子代表チームは主将の澤穂希(さわほまれ)(1978― )を中心に強豪を相手に健闘、決勝でランキング1位のアメリカを延長戦のすえPK戦で破り優勝し、国民栄誉賞を受賞した。さらに同年9月オリンピック・ロンドン大会のアジア予選を勝ち抜き、11月には紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章。ワールドカップ、オリンピック予選のテレビ中継はいずれも高視聴率を示し、「なでしこジャパン」のメディアの露出度は急激に高くなり、女子サッカーの認知度を飛躍的に高めた。後を継ぐべき若手もU-17(17歳以下)日本代表は2010年FIFAワールドカップ(U-17女子ワールドカップ)で準優勝、U-20(20歳以下)日本代表も2011年のアジア大会(AFC U-19女子選手権)では優勝するなど優秀な選手は出ているが、今後取り組むべき課題はまず競技人口の拡大であろう。[岡野俊一郎]
ワールドカップ韓国/日本大会
2002年5月31日~6月30日に日本・韓国の各10都市で開催されたアジア初のFIFAワールドカップは、開催までには多くの困難があった。とくに、開催国決定時のFIFA会長と副会長が日本と韓国支持に分かれ、両国のサッカー協会も激しい招致合戦を繰り広げていた。最終的には国際オリンピック委員会(IOC)の会長が2か国共催の妥協案を出してFIFA会長を説得し、ワールドカップ史上初の2か国開催が実現したのであるが、この事実はほとんど知られていない。日本政府も日韓関係を考慮し、暗黙裏に2か国共催を支持したため大会はスムーズに行われ、成功を収めた。
 日本代表チームはグループリーグを2勝1分けの1位で通過、決勝トーナメントではトルコに0対1で敗れた。一方の韓国は3位決定に進出したが惜しくもトルコに敗れた。両国国民とサポーターの熱狂はものすごく、日本におけるサッカーに対する国民的関心を大いに高めた。
 とくに日本のサポーターは、自国が敗れた後も勝ち残った韓国代表の応援に回るなど、日韓両国が「一つの船に乗り、同じ目的地に向かう」という本当にすばらしい関係をつくり出した。開催当時のFIFA会長は「ほほえみの大会」World Cup of smilesと大会全般を高く評価した。この背景には、参加チームすべてに公平な拍手を送る日本の観客、海外からの観戦者たちに対するボランティアの温かい対応があった。
 大会前、心配された大会の収支は関係政府機関・開催自治体・民間企業の協力と為替(かわせ)差益の好転により大幅な黒字をもたらし、結果として日本サッカー協会は自前のビル(JFAハウス)をはじめ、トレーニングセンターなどの施設をもつことができ、その後の日本サッカーの発展に大きく寄与した。[岡野俊一郎]

世界の現状

国際サッカー連盟(FIFA)の加盟国・地域は208(2012)で、各種スポーツのなかで世界最大規模の連盟の一つである。この組織の特徴はプロとアマチュアを包含するサッカーに関する唯一の組織であることで、世界各国も同様に1国1協会しか存在を認めず、プロ選手がいる国では、プロ、アマチュア両方を統轄することが義務づけられている。したがって、プロ、アマチュアの交流は当然のこととされており、多くのサッカー・クラブはプロを頂点とし、その下にアマチュアから子供までがいっしょに所属している。
 FIFAの規約では、選手は、(1)アマチュア、(2)プロの二つの資格に分かれている。プロ選手が生まれたのはイギリスであるが、今日ではヨーロッパ、南北アメリカのみならず、アジア、アフリカにもプロ選手がいる。かつて東欧諸国にはプロは存在しない建前であったが、実際にはプロ同様であったことから第二次世界大戦後の最初の1948年オリンピック・ロンドン大会でのスウェーデンの優勝を最後に、1980年のモスクワ大会まで優勝はすべて東欧の国によって占められるに至った。そのため1982年FIFAは新たに「オリンピック選手」という資格を設定したが、その内容が国際オリンピック委員会(IOC)の考え方と一致せず、協議の結果、1992年のオリンピック・バルセロナ大会では23歳以下のみに参加資格が与えられ、1996年のアトランタ大会から予選を勝ち抜き本大会に出場するチームは24歳以上の選手を3名に限り補充できることに決まった。
 サッカーの世界一を決めるワールドカップは4年に一度、オリンピックの中間年に行われている。この大会はプロもアマチュアも参加できるオープン大会で、その熱狂ぶりはオリンピックを上回るものがあり、世界最大のスポーツの祭典といわれている。FIFAの会長であったジュール・リメの提案により1930年に第1回ジュール・リメ・カップ争奪世界選手権(ワールドカップ)がウルグアイで開催されたが、1958年、1962年、1970年とブラジルが3回優勝し、規定により黄金のジュール・リメ・カップを永久保持することになったため、1974年の西ドイツ大会から新たに製作されたカップの名称もワールドカップになった。1964年イングランド大会での北朝鮮のベスト8進出という快挙を除き、1978年アルゼンチン大会まではつねにヨーロッパ対南アメリカの戦いであったが、1982年スペイン大会以降アフリカ、アジア勢の活躍が話題になり、その進歩が注目されている。
 イギリス系の激しさ、ヨーロッパの合理性、ラテンの個人技という民族性のサッカーから、それらを総合した理想のサッカーに向かって世界中の国が努力しており、この意味では日本も日本のサッカーを1日も早く確立することがたいせつである。[岡野俊一郎]

競技場

競技場の大きさは許容範囲があり、この範囲内なら公式試合を行うことができる。ただし、ワールドカップ、オリンピックおよび公式国際試合の場合には、幅68メートル、長さ105メートルの競技場で行うことが決められている。四つのコーナーに、上部にコーナー・フラッグをつけたポール(高さ1.5メートル以上)を立てる。ゴール・ポスト、クロス・バーの材質は木材でも金属でもよい。フィールドは本来は芝生または人工芝だが、土でもよい。
 世界でもっとも大きいサッカー場はブラジルのリオ・デ・ジャネイロにあるマラカナン・スタジアムで収容能力は20万人(2012年時点の収容人数は10万人以下)であるが、1950年のジュール・リメ・カップ大会の決勝戦、ブラジル対ウルグアイ戦では25万を超える人が立錐(りっすい)の余地もなく入った。このほかにもスコットランドのグラスゴーにあるパンプデン・パーク・スタジアム、イングランドのロンドン近郊のエンパイヤー・スタジアム・ウェンブリー、スペインのマドリードにあるサンチアゴベルナベウ・スタジアム、メキシコのアステカ・スタジアムなど、10万人以上を収容するサッカー場が各国にあったが、観客の事故を防止する考えから、従来の立ち見席を椅子(いす)席にしたサッカー場が多く、したがって収容能力は以前より15%前後減少している。[岡野俊一郎]

競技方法とルール


チーム編成
1チームは11人で構成され、そのうちゴールキーパー(GK)だけは他の10人と異なった色のユニホームを着用し、ペナルティー・エリア内では手でボールを扱うことが許されている。GKはゴールを守り、他の10人はフィールド上の必要な地域にポジションをとる。この10人の配置法をシステムとよぶ。歴史的にみると、もっとも基本的なシステムは、2フルバック(FB)システム、3FBシステム、4FBシステムで、おのおの2―3―5、3―2―5、4―2―4など、バックスから各ラインを構成する選手の数を書いてシステムを表す。
 2FBシステム→3FBシステム→4FBシステムというシステムの変遷は、サッカー選手の技術と体力の進歩に伴う戦術の変化をそのまま示している。技術水準の低い時代はパスの正確度も低く、したがって攻撃自体のスピードも低かったが、技術の向上により攻撃はスピードが速くなり、かつ変化の多いものになり、それに対応するために守備に配置される選手の数が多くなったわけである。1970年代になると4―4―2または4―3―3が主流となり、トップに配置されるフォワードの数が少なくなった反面、守備の選手がフォワードの前にまで出て攻撃に参加するオーバーラップが多用されるようになった。このような運動量の多い体力を必要とする意外性のある攻撃に効率的に対応するために、守備は、相手の選手の担当を決めてマークするマン・ツー・マン(対人守備)方式と、自分の担当する地域に入ってきた相手をマークするゾーン(地域守備)方式が併用されるようになった。守備を主としたスウィーパーも機をみて攻撃に参加することが多くなり、リベロとよばれるようになった。今日では中盤の構成を重視し、ボランチとよばれる攻守両面を担う選手の配置によっては3―5―2、4―5―1、3―3―2―2等のシステムを用いることもある。[岡野俊一郎]
勝敗
前半45分、ハーフ・タイム15分以内(大会ごとに決める)、後半45分、計90分という試合時間に相手のゴールにより多くボールを入れた(得点)ほうが勝者となる。得点は、ボールが完全に相手ゴールのゴール・ライン上の空間を通過したときに1点が与えられる。誤って自分たちのゴールにボールを入れた場合(オウンゴール)でも相手側に1点が与えられる。
 リーグ戦形式の場合は延長戦は行わず引き分けとするのが普通だが、ノックアウト式トーナメントの場合は延長戦を行うこともあり、延長戦でも勝敗が決まらないときにはペナルティー・キック(PK)により勝者を決めることもある。また、延長戦の場合、得点があった瞬間で勝敗を決めるVゴール方式(FIFAではゴールデン・ゴールとよんでいる)はJリーグが世界で最初に採用した方式である。これらはそれぞれの大会ごとに規定されるのが普通である。[岡野俊一郎]
選手交替
かつては選手交替はいっさい認められなかったが、今日では3~7名、試合中いつでも認められるようになった。人数はそれぞれの大会ごとに規定されるのが普通である。なお、ワールドカップ、オリンピック、AFCチャンピオンズ・リーグ、Jリーグなどでは3名とされている。[岡野俊一郎]
審判
主審(レフェリー)1名、副審(アシスタント・レフェリー)2名によって判定が行われる。審判員は対戦する2チームとはっきり区別できる色のユニホームを着用する。判定はすべて主審によって行われ、だれもそれに対し抗議することを許されない、絶対的かつ最終的なものである。主審は判定と同時に、試合をスムーズに進める責任をもっている。副審は主審の判定を助ける。また、競技会の規定によって第4の審判員を任命することができる。[岡野俊一郎]
試合開始
両チームの主将がトスにより、キック・オフをとるか、エンドをとるかを決める。トスは硬貨を投げ上げ、その表裏によって決める。得点があった場合は、得点されたチームがキック・オフすることによって試合が再開される。[岡野俊一郎]
スロー・イン
ボールがタッチ・ラインから出た場合、ボールに最後に触れた選手の反対チームの選手が、ボールが出た地点から両手でボールを投入することにより試合が再開される。[岡野俊一郎]
ゴール・キックおよびコーナー・キック
ボールがゴール・ラインから出た場合、最後に触れたのが攻撃側の選手であればゴール・キックとなり、ゴール・エリアの中にボールを置き、これをキックすることにより試合が再開される。この場合、ボールが一度ペナルティー・エリアの外に出るまではイン・プレー(試合続行)とはならない。最後にボールに触れた選手が守備側の場合には攻撃側にコーナー・キックが与えられる。コーナー・キックは、ボールが出たサイドのコーナー・エリア内に置いたボールを攻撃側の選手がキックすることにより試合が再開される。[岡野俊一郎]
フリー・キック(FK)
〔1〕直接FK 次の七つの反則をすると、反則された側のチームに与えられ、キックされたボールが直接ゴールに入れば得点となる。(1)ハンドリング ボールを手で扱った場合、(2)プッシング 相手を手や腰で押した場合、(3)トリッピング 相手を足でひっかけた場合、(4)ホールディング 相手を手でつかまえた場合、(5)ストライキング 相手を手で殴った場合、(6)ジャンピング・アット 足をあげて相手に飛びかかった場合、(7)バック・チャージ 妨害していない相手を背後からチャージ(体当たり)した場合。選手を悪質な反則によるけがから保護するために、とくに背後からの激しいタックルは厳しく判定され、場合によっては即退場となる。
〔2〕間接FK 次の五つの反則をした場合に相手側のチームに与えられ、キックされたボールが一度他の選手に触れたあとでないと、ゴールに入ってもゴール・インにはならない。このFKのときは主審は、キックが行われるまで片手を上に伸ばし間接FKであることを示す。(1)オブストラクション(ボールをプレーしないで故意に相手を妨害すること)、(2)危険なプレー、(3)ゴールキーパーが手や腕で6秒以上ボールを保持した場合、(4)ゴールキーパーが、味方の選手から意図的に足でバックパスされたボールを手でキャッチした場合、(5)反スポーツマン的行為。
〔3〕オフ・サイドによる間接FK オフ・サイドの反則とは基本的には「待ち伏せ」は反スポーツマン的行為だという考えである。したがってこの反則には間接FKが与えられる。攻撃側の選手が相手のエンドでパスを受けるとき、相手側のゴール・ラインと自分との間に相手側の選手が2人以上いない地点でボールをもらうとオフ・サイドになる。ただし、これはパスを出した瞬間の位置である。[岡野俊一郎]
ペナルティー・キック(PK)
ペナルティー・エリア内で守備側の選手が直接FKになる反則を犯すと、攻撃側にPKが与えられる。[岡野俊一郎]

サッカーの特徴とおもしろさ

人間が日常もっともよく使う「手」を使わずに、それ以外の部分でボールを扱いながら、スピーディーに攻守がかわり、個人の技能が高度に発揮されると同時に、11人のチームワークを必要とする。ルールのなかで選手のプレーを制約するのはオフ・サイドだけで、1人でドリブルし続けようと、パスを前後左右いずれに出そうと自由である。それだけにチームにとって何がいちばんよいプレーかをつねに正しく判断できる能力が要求される。ボールをもっている1人に、他の10人がどのように絡み、チームとしての攻めを組み立てるか。それに対抗し、11人でゴールをどう守るか。仲間の意図を理解し、相手の考えを読むという戦術の基本をもとに、チームとチームがぶつかり合うところに、見る者の心をひきつける本当のおもしろさが生まれる。[岡野俊一郎]
『後藤健生著『サッカーの世紀』(1995・文芸春秋) ▽アルフレッド・ヴァール著、遠藤ゆかり訳『サッカーの歴史』(2002・創元社) ▽日本サッカー協会編『最新サッカー百科大辞典』(2002・大修館書店) ▽日本サッカー協会編・刊『サッカー競技規則』各年版』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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