丈部荘(読み)はせつかべのしょう

百科事典マイペディア 「丈部荘」の意味・わかりやすい解説

丈部荘【はせつかべのしょう】

越中国新川(にいかわ)郡に置かれた古代東大寺領荘園。成立は749年の勅施入に基づき,東大寺占墾地使僧平栄らによる野地占定の結果であった。759年の〈東大寺越中国所郡荘園総券〉および〈開田地図〉に丈部村・丈部野地として84町余の荘地が記載される。当時の開田面積は36町4反余であったが,767年の〈越中国司解〉には丈部村地として見開76町3反290歩とあり,この間に開発が大幅に進んだことが知られる。同年の〈越中国司解〉に丈部庄とみえる。その後荘地は微増したが,998年当時は他荘と同様すでに〈庄田悉荒廃〉という状況であった。比定地については富山県入善(にゅうぜん)町の〈じょうべのま遺跡〉一帯や同県滑川(なめりかわ)市の海岸辺一帯にあてる説があるが,〈開田地図〉に記載された条数と《和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)》に載る新川郡丈部郷の比定地から,富山市内の旧水橋(みずはし)町東部から滑川市北部にかけてを占めた可能性が高い。

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改訂新版 世界大百科事典 「丈部荘」の意味・わかりやすい解説

丈部荘 (はせつかべのしょう)

越中国新川郡におかれた東大寺領荘園の一つ。749年(天平勝宝1)東大寺占墾地使僧として北陸に赴いた僧綱佐官法師平栄らによって占定された。759年(天平宝字3)11月14日付の〈越中国諸郡荘園惣券〉および開田地図に〈丈部村地〉〈丈部野地〉として84町212歩の荘地が記されているのが史料上の初見である。この時点での開田面積は36町4段90歩に過ぎなかったが,767年(神護景雲1)11月16日付の〈越中国司解〉によれば,見開田は76町3段290歩で,この間に開墾が急速に進められたことが知られる。また同年5月7日付の〈越中国司解〉には初めて〈丈部庄〉という名称がみえる。その後平安時代初期を通じて荘地は約8町ほど増加したが,内部の経営はむしろ衰退し,998年(長徳4)の段階ではすでに〈庄田悉荒廃〉という状態であった。富山県下新川郡入善町の〈じょうべのま遺跡〉がその故地かとされるが,なお異説もあり,確かではない。
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