日本歴史地名大系 「三井楽村」の解説 三井楽村みいらくむら 長崎県:南松浦郡三井楽町三井楽村現町域の南東部に位置し、北部に京(きよう)ノ岳があり、南部を正淵(まさぶち)川が流れる。近世は浜之畔(はまのくり)村・貝津(かいつ)村などの諸村(現町域のすべて)の総称として用いられる場合が少なくない。江戸時代は福江藩領三井楽掛に属する。慶長国絵図に「三井楽」とみえ、高九八石余。万治二年(一六五九)の惣高積之帳にも三井楽とあり、正保国絵図の高一五〇石余、今高三〇一石余。万治年間とされる五島一円惣高帳では「三井楽村 但五ケ村」として高三〇一石余、うち蔵入地二八九石余・給地一〇石余・寺社領一石余。寛文四年(一六六四)の福江領高辻帳および天保郷帳などに記載がなく、これらに記される浜之畔村・柏(かしわ)村・牛之浦(うしのうら)村・貝津村の四ヵ村が当村に相当すると考えられる。村内の田地のうち公田は地百姓・浜百姓が例年籤によって耕作を請け、その年貢は一〇石につき二ツ九分から四ツとされ、ほかに代銀納や麻・苧・藍・畳・苫などを納めた。竈百姓は私田の耕作および塩焼・炭焼を行い、その負担は一軒につき木炭六〇俵(薪の代納も可)・食塩若干・銀五〇〇匁および夫役があった。また町人・商人は冥加銀を納めた(五島通史・三井楽町郷土誌)。天和三年(一六八三)三井楽の前代以来の運上として「しい」(椎か)、雲丹などが確認されている(「御掟書」五島編年史)。また天保元年(一八三〇)山奉行大浜昌信からの報告では三井楽打折(うちおれ)ノ坂脇(さかわき)に石炭場所を見立て採掘の出願をする者があるという(増補継志系図)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by