三佐村(読み)みさむら

日本歴史地名大系 「三佐村」の解説

三佐村
みさむら

[現在地名]大分市三佐

乙津おとづ川と小中島おなかしま川に挟まれた地域の小中島川沿いに位置し、北は海、西は海原かいわら村。参宮帳写(後藤作四郎文書)によれば、天正一七年(一五八九)三月二二日、高田たかた庄「おと津みさ」の七人が伊勢神宮に参詣している。当初幕府領であったが、元和九年(一六二三)岡藩萩原はぎわら村が松平忠直(一伯)領となった際、替地として海原村とともに同藩領となり、閏八月二三日両村の受渡しが行われた。九月一三日には三佐の町割のため中川式部が派遣され、萩原村から船奉行柴山藤四郎も移ってきた(中川氏年譜)。以後同藩の瀬戸内海への玄関口として明治に至る。正保郷帳によると田高一石余・畑高一五〇石余、戸次へつぎ庄と付記。水損所と記され、洪水などの被害を受けやすかったことがうかがえる。その後村高が増加し元禄郷帳では一五四石余、天保郷帳では一九五石余、旧高旧領取調帳では三二九石余。当初は大分郡内岡藩領五ヵ村で一組という村組であったが(地方温故集)、のち一村一組として三佐組となっている(農民一揆)


三佐村
みざむら

[現在地名]中津村三佐

矢筈やはず岳の西麓、日高川に沿い、北は田尻たじり村、西は日高川を挟んで坂野川さかのがわ村。慶長検地高目録に「箕佐村」とみえ、村高一八四石余、小物成一・〇八四石。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」には「味佐村」とあり、田畑一五町八反余で高一八八石余、家数四五で内訳は本役一三・半役八・無役一九・庄屋一・年寄三など、人数一九七、牛一四、馬二、鉄砲一二、御蔵一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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