中津村(読み)なかつむら

日本歴史地名大系 「中津村」の解説

中津村
なかつむら

[現在地名]三朝町中津

小鹿おしか川の最上流部に位置する。西は神倉かんのくら村、南に三国みくに山がそびえる。佐谷さだに峠まで一二町三〇間、峠から因幡国気多けた河内こうち(現鹿野町)まで一里四町二〇間(伯耆民談記)。天正七年(一五七九)五月一一日の南条元続裁許状および南条信正等連署副状(中津区有文書)に中津・中津村とみえ、小鹿との「あひの谷」をめぐる山境争論で、中津側の主張どおり、河より東は中津分と認められた。平将門末裔伝説があり、「伯耆民談記」は当地に居住し、謡を好んだ将門の末裔が子孫に伝えたという中津謡(平家謡)について記し、村内の勢至せいし堂は末裔の持仏堂と伝える。また大正元年(一九一二)頃発見された中津平家文書により安徳天皇・平家落人伝説をもつようになる。享保一一年(一七二六)の中津平家由来書によれば、平保道が「主上を奉守護、伯洲の山中に身を潜め(中略)大君御崩御被遊、普賢菩薩の辺に奉御葬」とある。平家の持仏であった普賢菩薩を祀ったと伝える普賢ふげん堂が現在も残る。

中津村
なかづむら

[現在地名]岩国市楠町くすのきまち一―三丁目・中津町なかづまち一―三丁目・三角町みすみまち一丁目・門前町もんぜんまち五丁目

現岩国市の東部、にしき川の河口、今津いまづ川と門前もんぜん川の間にできた三角州上の村。北は同じ三角州上のくるま村・向今津こいまづ村。

寛永二〇年(一六四三)に岩国庄を分割してできた小村の一つで、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に村名が出る。「玖珂郡志」に「中州村ハ門前川ト本川(今津川)ノ中間也、故ニ中州ト云フカ」とある。なお「享保増補村記」は「郷俗伝来ノ説ニ、当村ハ旧名麻里布トイヘリ」と記し、「万葉集」巻一五にみえる麻里布浦は当所であると説いている。

中津村は三角州の川上を占め、その最も川上にある頂部は中世から開けていた。寛文八年(一六六八)の「古村記」にすでに、中村なかむら川本かわもと宮の前みやのまえ大藪おおやぶ・えいが鼻などの小名が列挙されている。

中津村
なかづむら

[現在地名]安来市中津町

西赤江にしあかえ村・坂田さかだ(上坂田村)今津いまづ村の南に位置し、村域は飯梨いいなし川両岸にわたる。同川の港津に由縁する地名であろう。中世には一帯中須なかず郷が成立していた。正保国絵図に村名がみえ、慶安三年(一六五〇)検地帳によると、上々田二町一反余・分米高三四石余(一石六斗代)、上田五町一反余・七六石余(一石五斗代)、中田九町四反余・一二二石余(一石三斗代)、下田五町五反余・六一石余(一石一斗代)、下々田五町八反余・四六石余(八斗代)、下々下田三反余・一石余(六斗代)、上畑一町余・九石余(九斗代)、中畑二町余・一四石余(七斗代)、下畑一町六反余・八石余(五斗代)、下々畑一町五反余・四石余(三斗代)田畑計三四町六反余・三七九石余、屋敷数二〇(うち御役目屋敷九)

中津村
なかつむら

面積:八七・〇六平方キロ

県の中央部に位置し、東は美山みやま村、西は川辺かわべ町、南は印南いなみ町、北は有田郡広川ひろがわ町・金屋かなや町にそれぞれ隣接する。中央を東から西へ日高川が大きく湾曲して流れる。北部郡境をなす白馬しらま山脈に発する三十井みそい川・高津尾たかつお川・伊佐いざの川、また南東村境にある矢筈やはず(八一〇・八メートル)から流れ出るわしの川などが、日高川に合流する地点に狭い耕地が開け、村落が点在する。

中津村
なかつむら

[現在地名]加古川加古川町中津かこがわちようなかつ

河原かわら村の北東に位置し、西は加古川に接する。永正一二年(一五一五)一一月五日、重則は中津村大嶋新兵衛重行より譲与された大窪の一段三〇代を、大野の常楽おおののじようらく寺乗本房智慶に永代に売渡し(「重則下地売券」古文書纂所収文書)、天文六年(一五三七)六月一日、智慶はそれを梶原満千代に譲与した。

中津村
なかつむら

[現在地名]宮津市字中津・字銀丘ぎんがおか

栗田くんだ湾に面し、上司じようし村と小田宿野おだしくの村に挟まれる。

慶長検地郷村帳には村名はみえないが、同書に記す栗田村に含まれていたと考えられ、延宝三年郷村帳に「栗田中津村」高一三四・七〇六石と記される。同九年(一六八一)の延高によって一六九石余となった(天和元年宮津領村高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報