三川村(読み)さんがわむら

日本歴史地名大系 「三川村」の解説

三川村
さんがわむら

[現在地名]飯岡町三川

横根よこね村・萩園はぎそね村の西方にある広域の村で、南は海に臨む。隣接する村との境が複雑に入組み、村内は曾根そね目那めな犬林いぬばやしうしろはまの五集落からなり、それぞれ名主をもつ。元禄郷帳に「サンガハ」の訓が付される。猿田さるた神社蔵の永正六年(一五〇九)八月五日の銅板銘に矢指やさし浦三川ノ里とみえ、この日猿田神社の神輿が矢指浜の沼四郎左衛門宅に入輿した際、神例に従い当地住人の蛙歌・春雨が三物の俳諧と俳名を刻した銅札を奉納している。永禄八年(一五六五)頃、千葉氏は当地などの百姓の製塩を禁止し、違犯した場合、塩竈を打壊し放火するよう命じている(「千葉胤富判物断簡」原文書)。同氏は天正一一年(一五八三)には宮内清右衛門尉に「さん川」の田五反を与え、製塩をゆだねている(閏一月「千葉氏役人衆奉書」下総旧事)


三川村
みかわむら

[現在地名]香住町三川

はた村の南西に位置する。村域は佐津さづ川最上流域の山間を占め、集落は同川沿いの谷間に発達。集落の南方には佐津川の水源となる三川山(八八七・八メートル)がそびえる。三川山系は豊富な山林資源に恵まれており、木地師の活動が早くから知られ、当村も古くは木地きじ村と称した。近世の領主の変遷は香住村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)には木地村とみえ、高四七石余。寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえる。出石封内明細帳によれば拝領高四七石余、この内訳は屋敷二斗余・麻畑二斗余・田方三〇石余・畑方一七石余、ほかに古新発高一〇石余・新発高九石余、家数二二・人数一三三。


三川村
さんがわむら

[現在地名]遊佐町豊岡とよおか

石辻いしず村の北にあり、西は上大内目かみおおうちのめ村。日向につこう川から取水しているうち川、伏流水きた川とまえの堰が村内を流れており、村名はこの三つの川に由来する。土地が高く湧水が多い。村東の清水田しみずたは冷田となっている。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に三河村とみえ高一九九石余。寛永元年庄内高辻帳では高二五五石余。享和三年(一八〇三)には家数二三・人数一一九(「村数家数人高控帳」斎藤文書)


三川村
みかわむら

[現在地名]虎姫町三川

宮部みやべ村の北に位置。慈恵大師良源の生誕地とされる。三河とも記した。中世は湯次ゆすき庄のうち。永享七年(一四三五)七月の長浜八幡宮奉加帳(東浅井郡志)に勧進猿楽の「桟敷注文次第」として「三河村」分の桟敷「二間」とある。天文二〇年(一五五一)一〇月一六日の証状(勢州社家文書)によれば、伊勢神宮御師の足代弘幸が「江州北之郷三河村一円大神宮御宿職」を福島甚七に五貫文で売渡している。


三川村
みかわむら

面積:二四九・二六平方キロ

郡の北西部に位置し、棒掛ぼうかけ山・蒜場ひるば山・松平まつだいら山・ひしヶ岳・菅名すがな岳など一〇〇〇メートル級の山が境界をなす。東は鹿瀬かのせ町・津川つがわ町、北は新発田しばた市、西は北蒲原郡笹神ささがみ村・安田やすだ町と五泉市、南は上川かみかわ村・中蒲原郡村松むらまつ町に接する。村の中央部を阿賀野川が西流し、南北に支流が数本流れる。国道四九号と国鉄磐越西線が大動脈である。九五パーセントが山林のため、産業は林業中心となっている。最近では緑化センターを建設し、公共施設緑化木や庭園樹木の養苗・販売を行っている。


三川村
さんがわむら

[現在地名]国府町三川

みや川と小八賀こはちが川の合流点右岸にあり、西方の小八賀川対岸は大野郡下切しもぎり(現高山市)、東は下保しもぼ(現大野郡丹生川村)。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では寒川村とあり、広瀬ひろせ郷に属し、田方二〇八石余・畑方六一石余、物成八一石余。同一八年の郷帳では高三九三石。元禄検地反歩帳では高三九四石余、田二七町六反余・畑八町七反余。「飛騨国中案内」では免五割余、家数三一(うち寺一・百姓二八・門屋二)。「斐太後風土記」では村域縦一〇町・横三町、家数四二・人数二二〇余。産物は桑一千二〇〇貫・楮二〇〇貫・稲莚五〇束など。

寛文一二年(一六七二)小八賀谷中から高山城下へ薪榾を伐り出す際は、三川までは小八賀川を河下し、ここから宮川を川船に積んで運送するよう命じられている(国府村史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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