日本歴史地名大系 「三奈木庄」の解説 三奈木庄みなぎのしよう 福岡県:甘木市三奈木庄甘木市南部、佐田(さだ)川と荷原(いないばる)川に挟まれた三奈木を遺称地とし、同所を含む一帯に比定される庄園で、庄名は古代の下座(しもつあさくら)郡美嚢(みなぎ)郷(和名抄)の郷名を継承すると思われる。仁治元年(一二四〇)一一月一日の関東御教書案(九条家文書/鎌倉遺文 補遺編三)に「三奈木領」とみえ、当地は鎌倉将軍家領であったが、将軍九条頼経から実父の九条道家に進上されている。当庄は建長二年(一二五〇)三月二二日に京都東福寺に寄進されたらしく(貞和三年七月日「東福寺領諸庄園文書目録」東福寺文書/南北朝遺文(中国・四国編)二)、建長二年道家は「三奈木庄」は東福寺長老の管領で、監寺が毎年交替で現地に下向して年貢の収納を行い、それをおもに住侶の資粮に充て、また恒例仏事にも充て、九条家領を伝領した人が監査することとしている(同年一一月日「九条道家惣処分状」同文書/鎌倉遺文一〇)。九条家が本家、東福寺が領家であったと思われるが、後述するように弘安の役の恩賞として預所職・地頭職が武士に与えられているので、両職の任命権は幕府の手に残されていたと考えられる。なおこの頃、渋谷定心は庄内に畠地と園などをもっており(年月日未詳「渋谷定心所領注文」寺尾家文書/鎌倉遺文一〇)、嘉暦三年(一三二八)には当庄富永(とみなが)名内の「及杖河原畠」一町が渋谷惟重の所領であった(同年一二月二一日「渋谷重広所領注進状案」入来院文書/鎌倉遺文三九)。貞和五年(一三四九)には当地の屋敷などが渋谷重勝から虎松丸(重門)に譲られ、その後重門から子息虎五郎丸(重頼)―子息菊五郎丸(重長)―子息初五郎丸(重茂)へと伝領されたが、嘉吉元年(一四四一)重長から孫の菊五郎丸(重豊)に譲り直され、永伝元年(延徳二年、一四九〇)には重豊から子息重聡に譲られている(永伝元年八月二一日「渋谷重豊所領譲状」同文書/神奈川県史三下など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報