日本歴史地名大系 「甘木市」の解説 甘木市あまぎし 面積:一六七・一九平方キロ県の中央部に位置し、東は朝倉(あさくら)郡小石原(こいしわら)村、西は三井(みい)郡大刀洗(たちあらい)町・朝倉郡三輪(みわ)町・夜須(やす)町、南は同郡杷木(はき)町・朝倉町・浮羽(うきは)郡田主丸(たぬしまる)町、北は嘉穂(かほ)郡嘉穂町と接する。市域北部は古処(こしよ)山・屏(へい)山・馬見(うまみ)山など標高九〇〇メートル前後の古処山地の山々が連なり、東部にもこれよりやや低い山々が連なる。これらの山間地を流れ下る小石原川や佐田(さだ)川は、上流部で秋月盆地(江川谷)や佐田渓谷(佐田谷)、中・下流部では筑紫(ちくし)平野へと続く扇状地を形成し、南辺を西に流れる筑後川へと注いでいる。北東―南西方向に国道三二二号が、これと甘木地内で交差する同三八六号が北西―南東に走り、小石原川沿いに西に向かう同五〇〇号が長谷山(はせやま)地内で三二二号から分岐する。ほかに主要地方道甘木―朝倉―田主丸線、同桂川(かつらがわ)―下秋月線、同朝倉―小石原線、同馬田(まだ)―頓田(とんた)線なども通り、大分自動車道の甘木インターチェンジがある。また甘木を起点に甘木鉄道・西鉄甘木線が小郡・久留米方面へ延びている。市名は江戸時代に一帯の交通・商業の要衝であった甘木町(甘木村)を継承する。〔原始・古代〕市域の考古遺跡については朝倉郡を参照。市域は律令制下の夜須・下座(しもつあさくら)・上座(かみつあさくら)の三郡にまたがる。夜須郡は大宰府史跡不丁(ふちよう)地区官衙出土の付札木簡により、調として苫を納入しており、調長として大神部道祖の名もみえる。また郡名と「天平□(六カ)年」の紀年を有する付札も出土している(以上、大宰府概報二)。治安二年(一〇二二)二月二〇日の筑前国符(石清水文書/平安遺文二)によれば、夜須郡はのちに夜須東郷・夜須西郷に二分されるが、市域は東郷にあたっていたと考えられる。「和名抄」記載の諸郷に関しては、夜須郡では馬田郷は馬田(まだ)付近、川島(かわしま)郷は後代の史料に「夜須東郷河嶋菩提寺」(観応三年書写安楽寺領注進状)とみえることから、菩提寺(ぼだいじ)付近とする説がある。一方、下座郡七郷のうち立石(たてし)郷は堤の立石(つつみのたていし)神社との関連が指摘され、饗(くわえ)郷は桑原(くわばら)付近とする説がある。美嚢(みなぎ)郷は三奈木(みなぎ)、城辺(きのへ)郷は三奈木の字木部(きべ)が遺称地ともみられ、三城(みつき)郷は近世の長田(ながた)村に「三城ノ渡」(水木渡)の跡があったことから(続風土記)、長田付近とする説もある。残る馬田(うまた)郷(夜須郡からの錯入とする説がある)・青木(あおき)郷の比定地は未詳。なお上座郡柞田(くぬぎた)郷は「佐田」の誤りとみて市東部の佐田に比定する説がある。「延喜式」神名帳記載の下座郡美奈宜(みなぎ)神社は、貞観元年(八五九)従五位下から従五位上に叙されたが(「三代実録」同年正月二七日条)、現在、市内の二社がこの名を称している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by