日本大百科全書(ニッポニカ) 「五条頼元」の意味・わかりやすい解説
五条頼元
ごじょうよりもと
(1290―1367)
南朝の廷臣、武将。法名無礙宗性(むげそうしょう)。大外記清原良枝の二男。母未詳。後醍醐(ごだいご)天皇に仕えて大外記、少納言(しょうなごん)、勘解由(かげゆ)次官などに歴任したが、延元(えんげん)(1336~40)のころ、天皇が足利(あしかが)氏追討の軍略から皇子懐良親王を征西将軍に任じ、西国に下向させることになり、頼元を随従させ、その守護と教育の任にあたらせた。頼元が親王らとともに瀬戸内海の忽那(くつな)島を経て、薩摩(さつま)(鹿児島県)に上陸したのは1343年(興国4・康永2)5月で、これよりのち菊池、阿蘇(あそ)らの豪族と協力して九州南軍の一翼として各地に転戦、活躍した。晩年には出家しているが、正平(しょうへい)22年5月20日筑前(ちくぜん)三奈木荘(みなきのしょう)で死没したとあり、一説には同月28日死没ともいう。その子孫の五条氏はいまも福岡県に存続している。
[村田正志]