日本歴史地名大系 「三条島ノ城跡」の解説
三条島ノ城跡
さんじようしまのじようあと
中世から近世初頭にかけて、古い信濃川と
応永の乱の際は守護代長尾邦景方の拠点で、山吉久盛が城将となっていた。守護方であった揚北衆の一人中条房資(秀叟)は、応永三三年(一四二六)「三条島之城」を攻囲し、このとき久盛は籠城して切腹をする覚悟であったが、守護方の結束の乱れから危機を脱している(享徳三年四月二八日「中条秀叟記録」三浦和田中条氏文書)。永正の乱に際しては、同六年(一五〇九)と考えられる九月二一日付上杉可諄(顕定)書状写(毛利安田氏文書)に「三条要害」を落居せしめたことが記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報