新潟県中央部の市。2005年5月旧三条市と栄(さかえ)町,下田(しただ)村が合体して成立した。人口10万2292(2010)。
三条市西端の旧町。旧南蒲原郡所属。1981年町制。人口1万1785(2000)。信濃川と刈谷田(かりやた)川の合流点東岸にあり,東部は魚沼丘陵西麓にあたる。東部は古くは大面(おおも)荘と呼ばれ中越平野開発の拠点であった。西部は近世に開発された新田地帯で,低湿地のためたびたび水害で悩まされた。特に1961年の第二室戸台風では大きな被害を受けたが,国営刈谷田川右岸用排水事業により乾田化され,良質米の産地となっている。金物で知られる旧三条市に隣接し,国道8号線沿いに鋳物,工具などの工場が立地しているが,零細規模のものが多い。東部の北潟には大正から昭和初期にかけて大面油田があったが,廃井された。日本鶏の産地としても知られ,蜀鶏(とうまる)(天)の飼育が盛ん。信越本線が通じる。
執筆者:佐藤 裕治
三条市北部の旧市。1934年市制。人口8万4447(2000)。越後平野の一角,五十嵐川と信濃川の合流点に位置する。戦国時代から近世初頭にかけては城下町であったが,のち三条城は廃城となり,その後は信濃川水運の要衝として,2・7の日に六斎市が立つ市場町として再生した。金物の町として有名であるが,これは元禄年間(1688-1704)に五十嵐川のはんらんに苦しんだ農民が副業として和釘(わくぎ)を製造したのが始まりという。以後,大工道具,農具や包丁,はさみなどの日用刃物をつくるようになり,行商によって県外へ商圏を広げ,18世紀ころからは特産品として関東・甲信越地方などに販売された。金属製品,電気機器,機械,鉄鋼などの工業が立地するが,出荷総額2392億円(1995)のうち金属製品が29%を占める。小規模企業では伝統的な刃物,大工道具,農具を,大工場では作業工具やストーブなどの金属製品のほか,運動用具,厨房用品を製造し,工業団地が形成されている。JR信越本線と弥彦線が東三条駅で交差し,隣接する燕(つばめ)市内を上越新幹線と北陸自動車道が通り,燕三条駅,三条燕インターチェンジがある。法華宗総本山本成(ほんじよう)寺,東西本願寺三条別院,鎌倉時代の木造阿弥陀如来立像のある時宗乗蓮(じようれん)寺がある。
執筆者:磯部 利貞
鎌倉時代の大槻(おおつき)荘の地で,1297年(永仁5)日印が本成寺を創建した。三条の名の初出は1382年(弘和2・永徳2)である。蒲原(かんばら)郡支配の要地として長尾氏は三条島の城に山吉氏や神余(かなまり)氏を置き,1584年(天正12)には部将甘糟長重が城普請を行った。98年(慶長3)堀秀治は一族堀監物直政に5万石を与えて在番させ,1612年江戸幕府は松平重勝を松平忠輝の付家老とし,三条城を与えた。16年(元和2)には市橋長勝が城を元町(旧,古城(こじよう)町)に移し,20年稲垣重綱が継いだが,23年廃藩,幕領となった。49年(慶安2)村上藩領となり,藩は飛地領4万石を管轄するため88年(元禄1)三条陣屋を設置した。廃藩により町は水運の便のよい信濃川,五十嵐川の合流点沿いに移転し,舟着場,宿場町,陣屋町,門前町,また金物の町として発展した。
執筆者:小村 弌
三条市中東部の旧村。旧南蒲原郡所属。人口1万1430(2000)。信濃川支流五十嵐川流域を占め,川沿いの低地と福島県境をなす山地からなる。古くから下田郷と呼ばれた地で,中世には土豪五十嵐氏の支配下にあった。近世には村松藩領となり,五十嵐川沿いの新田開発が進められた。五十嵐川沿いはたびたび水害にみまわれたが,1964年多目的の笠堀ダム,93年には大谷ダムが完成した。笠堀ダム周辺の山あいはニホンカモシカの生息地(天)。五十嵐川上流には八木鼻などの景勝地があり,付近に越後長野温泉(純食塩泉,24℃)がある。
執筆者:佐藤 裕治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
新潟県の中央部、信濃(しなの)川と五十嵐(いからし)川の合流点にある市。金物の町として知られる。1934年(昭和9)市制施行。1951年井栗(いぐり)村、1954年本成寺(ほんじょうじ)村、大崎村、1955年大島村を編入して、三南地方の中心都市となる。2005年(平成17)南蒲原(みなみかんばら)郡下田村(しただむら)、栄町(さかえまち)を合併。信濃川三角州の州頂を占め、本流の信濃川、中ノ口川、西川の分岐点にあたる州島(すじま)開発の拠点である。JR信越本線と弥彦線(やひこせん)の分岐点にあたり、上越新幹線駅(燕(つばめ)三条駅)、北陸自動車道の三条燕インターチェンジ、国道8号、289号、290号、403号などの交差する交通上の要衝で、古くは河川交通の河岸場(かしば)町としても栄えた。山麓(さんろく)の五十嵐川扇状地面は古くは「勇礼郷(いぐれごう)」「大槻庄(おおつきのしょう)」などとよばれた古村で、式内社伊久礼(いぐれ)神社や槻田(つきた)神社も残る。中世、上杉氏の時代には三条長尾氏の重臣の居城が置かれた。近世初期は堀氏の下越(かえつ)支配の前進基地として、堀直政(なおまさ)の5万石の城下町となる。1618年(元和4)徳川氏の譜代(ふだい)大名牧野氏が長岡城に配置され、のち三条城は廃城となった。以後、村上藩、新発田(しばた)藩などの分轄統治となり、町も六斎(ろくさい)市場町、金物町にかわった。有名な金物の町としての発生は、1720年(享保5)ごろから釘鍛冶(くぎかじ)、農具鍛冶から始まり、幕末には大工道具、日用刃物、家庭金物などの日本有数の金物町に発展した。とくに三条は金物行商に力が注がれ金物卸問屋町として、行商で販路を広げた。零細鍛冶工場が多く、年産2642億円(1996)を超える工業出荷額の30.3%は金物で、海外輸出も盛んである。三条祭の大名行列や、凧合戦(たこがっせん)が名物で、三条古城跡、法華(ほっけ)宗総本山本成寺、真宗大谷派別院などの名所旧跡も多い。面積431.97平方キロメートル、人口9万4642(2020)。
[山崎久雄]
『渡辺行一著『三条の歴史』(1966・野島出版)』▽『『三条市史』上下(1978、1983・三条市)』▽『『三条市史資料編』(1982・三条市)』
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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