三条城(読み)さんじょうじょう

日本の城がわかる事典 「三条城」の解説

さんじょうじょう【三条城】

新潟県三条市にあった平城(ひらじろ)。信濃川のほか、中之口川、五十嵐川、刈谷田川などの支流が集まる水郷地帯にあり、これらの河川を利用してつくられた川城である。平安時代に三条左衛門が築き、1051年(永承6)に始まった前九年の役の後、安倍貞任(あべのさだとう)の郎党の黒鳥兵衛が攻め落としたという伝承があるが、築城年代は明らかではない。南北朝時代には、この一帯は南朝方の池氏の拠点となったが、池氏と三条城の関係も不明である。その後、守護代の長尾邦景に属した山吉氏代々の居城となった。1577年(天正5)、山吉豊守が死去すると、嗣子がいなかったために弟の山吉景長が山吉氏の家督を継いだが、領地は半減されて居城を木場城(新潟市)に移した。代わりに、三条城には神余親綱が入城した。翌1578年の上杉謙信の急死後、その後継者をめぐって起こった御館の乱では、親綱は栃尾城(長岡市)の本庄秀綱とともに上杉景虎に与し、景虎死後も上杉景勝に頑強に抵抗を続けたが、1580年(天正8)に三条城は内応により落城し、親綱は自刃した。景勝は三条城を修築して家臣の甘粕長重を城主として入城させ、1581年(天正9)に起こった新発田重家の乱では、景勝の居城である春日山城(上越市)からの中継拠点として使った。1598 年(慶長3)、上杉景勝が会津に移封されると、堀直清が三条城主となった。その後、堀家が改易になると三条城は廃城となった。江戸時代に入った1616年(元和2)、大坂夏の陣の功績により市橋長勝が当地に4万3000石で入部して、信濃川東側(三条城とは対岸)に、新たな三条城を築いた。しかし、市橋氏は在城後わずか5年で改易となり、三条城には稲垣重綱が入城したが、1642年(寛永19)、幕府により廃城とされ、長岡藩の牧野忠成により三条城は完全に取り壊された。その領地は天領(幕府直轄地)となり出雲崎代官所の支配に入ったが、1649(慶安2)、村上藩領となった。現在、遺構はほとんど残っていないが、市内の本成寺に三条城の移築城門と伝えられる山門が残っている。また、城のあった場所も旧三条競馬場からその付近の河床にかけての一帯であろうとの推定もあるが、特定されていない。JR弥彦線北三条駅から徒歩約10分。◇三条嶋城とも通称される。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の三条城の言及

【三条[市]】より

…越後平野の一角,五十嵐川と信濃川の合流点に位置する。戦国時代から近世初頭にかけては城下町であったが,のち三条城は廃城となり,その後は信濃川水運の要衝として,2・7の日に六斎市が立つ市場町として再生した。金物の町として有名であるが,これは元禄年間(1688‐1704)に五十嵐川のはんらんに苦しんだ農民が副業として和釘(わくぎ)を製造したのが始まりという。…

※「三条城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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