コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

松平忠輝 まつだいらただてる

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

松平忠輝
まつだいらただてる

[生]文禄1(1592).1.4. 江戸
[没]天和3(1683).7.3. 信濃,高島
江戸時代初期の越後高田藩主。徳川家康の6男。母は茶阿局 (ちゃあのつぼね) 。慶長3 (1598) 年三河長沢の松平家を継ぎ,同7年下総佐倉に4万石で入封。同8年信濃川中島 18万石に転じ,同 15年には越後福島 75万石 (異説あり) に移封。同 19年高田に移ったが,元和2 (1616) 年改易,追放に処せられた。改易の原因は大坂夏の陣に遅参したため (『藩翰譜』) とか,キリシタンや外国貿易に深い関係をもっていたためとかいわれる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

松平忠輝 まつだいら-ただてる

1592-1683 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)20年1月4日生まれ。徳川家康の6男。妻は伊達政宗の娘五郎八(いろは)。慶長4年武蔵(むさし)深谷城主。下総(しもうさ)佐倉,信濃(しなの)川中島,越後(えちご)福島の城主をへて,19年越後高田藩75万石の藩主となる。元和(げんな)2年大坂夏の陣への遅参などを理由に改易(かいえき)となった。上総介(かずさのすけ),越後少将とよばれる。天和(てんな)3年7月3日配流地の信濃諏訪で死去。92歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

松平忠輝

没年:天和3.7.3(1683.8.24)
生年:文禄1.1.4(1592.2.16)
江戸初期の大名。越後高田藩主。徳川家康の6男。母は茶阿の局。幼名辰千代。慶長4(1599)年武蔵国深谷(埼玉県)1万石の城主となり,7年下総国(千葉県)佐倉4万石の城主。8年信濃(長野県)川中島14万石の城主。11年仙台藩主伊達政宗の娘五郎八を妻に迎えた。15年閏2月越後国福島城(新潟県上越市)城主となり,越後・信濃両国に45万石を支配した。幕府は周辺の大名,村上頼勝(村上藩主),溝国宣勝(新発田藩主)を忠輝の与力とし,また付家老として大久保長安のほか,松平重勝(三条城主)を加えた。幕府の忠輝の福島城移封の目的は,外様大名の雄・加賀前田氏を制すること,関東周辺を徳川一門で固めること,および佐渡運上金銀の輸送路の確保などにあった。忠輝は入封すると間もなく,佐渡3道や北陸街道の整備のために,伝馬定,伝馬宿書出しなどを設けている。また福島城下の田端町に塩小売りの特権を与えたり,町立て,新田開き,新浜開きを奨励し,寺社領の寄進を進めた。19年幕府によって高田城(上越市)に移され,大坂の陣が起こると,江戸城留守居を命ぜられたが,大坂夏の陣への参加に当たり,戦闘に遅れたこと,将軍秀忠の旗本ふたりを殺したことを理由に元和2(1616)年改易に処された。伊勢国(三重県)朝熊に配流のあと,飛騨高山城主,信州諏訪城主と預け先も移された。

(横山昭男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

まつだいらただてる【松平忠輝】

1592‐1683(文禄1‐天和3)
江戸前期の大名。幼名辰千代。上総介,越後少将。徳川家康の六男。母は茶阿方(朝覚院)。長沢松平家を継ぎ,1598年(慶長3)武蔵国深谷1万石を領する。1602年下総国佐倉5万石,03年信濃国川中島14万石に転じ,10年越後国福島城(1614年より高田城)61万石を与えられ,川中島領と合わせ75万石の太守となった。しかし大坂の陣の不功などにより16年(元和2)改易,伊勢朝熊(あさま)に配流された。【杣田 善雄】

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

松平忠輝
まつだいらただてる
(1592―1683)

江戸前期の大名。初代将軍徳川家康の六男。母は茶阿局(ちゃあのつぼね)。幼名辰千代(たつちよ)。妻は伊達政宗(だてまさむね)の娘。遠江(とおとうみ)浜松に生まれ、一族の長沢の松平康忠(やすただ)の家を相続して松平を称し、武蔵(むさし)深谷(ふかや)、下総(しもうさ)佐倉(さくら)、信濃(しなの)川中島(かわなかじま)(長野市)の城主を経て、1610年(慶長15)越後(えちご)高田(上越市)城主となり60万石を領した。日ごろ酒におぼれ、暴虐のふるまいがあったといわれる。15年(元和1)大坂夏の陣に参加するとき、近江(おうみ)守山(もりやま)で部隊の前を通った将軍の旗本2人を殺し、さらに大坂方との戦闘に遅れたことを直接の理由として、翌年家康の死後領地を没収されて伊勢朝熊(いせあさま)(伊勢市)に流され、ついで飛騨(ひだ)高山、信濃諏訪(すわ)へと転じ、ここで死んだ。墓は諏訪市貞松院。[上野秀治]
『峰村秀夫著「松平忠輝」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

367日誕生日大事典の解説

松平忠輝 (まつだいらただてる)

生年月日:1592年1月4日
江戸時代前期の大名
1683年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典内の松平忠輝の言及

【越後国】より

…以上のようにして越後の近世史が開幕した。10年,堀氏のあと家康の第10子松平忠輝が入封,ここに徳川氏の支配が始まる。幕府は14年東北13大名に高田城を築かせ,北国の固めとして忠輝をここに入れたが,16年(元和2)忠輝の行状に不遜なものがあるとして改易,その遺領を幕領および高田,長嶺,藤井,長岡,三条の5藩に分かち,ここに小藩分立時代が到来した。…

【佐倉藩】より

…江戸前期には藩主の移動が激しかったが,1746年(延享3)以降は堀田氏の所領として定着した。1590年(天正18)三浦義次入封(1万石)の後,92年(文禄1)武田信吉(徳川家康の第5子,4万石),1602年(慶長7)松平忠輝(同第6子,5万石)と,佐倉の地は徳川一門の所領として重視された。譜代大名の入封は07年小笠原吉次(2万8000石)が最初で,以後譜代所領となる。…

【皆川広照】より

…90年の小田原征伐で家康に投降し,本領1万3000石を安堵された。1603年(慶長8)松平忠輝の補佐の臣となり,信濃国飯山7万5000石を領する。09年忠輝の行状を幕府に訴えたが,かえって改易となった。…

※「松平忠輝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

松平忠輝の関連キーワード野風の笛 隆慶一郎「捨て童子・松平忠輝」より捨て童子・松平忠輝高田(新潟県)五十川了庵横山 光輝伊達五郎八松平松千代酒井忠世牧之島城村上忠勝阿倍正之徳川忠輝今井宗薫五郎八姫村上義明皆川広照川中島藩生年月日岩本将監皆川隆庸

今日のキーワード

隗より始めよ

《中国の戦国時代、郭隗(かくかい)が燕(えん)の昭王に賢者の求め方を問われて、賢者を招きたければ、まず凡庸な私を重く用いよ、そうすれば自分よりすぐれた人物が自然に集まってくる、と答えたという「戦国策」...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

松平忠輝の関連情報