日本大百科全書(ニッポニカ) 「越後一揆」の意味・わかりやすい解説
越後一揆
えちごいっき
上杉遺民一揆、上杉家遺民一揆(『越後風俗志』)ともいう。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに関連する東国での局地戦の一つ。研究上は近世初頭の農民一揆、土豪一揆の一として知られる。上杉景勝(かげかつ)は1598年(慶長3)、会津(福島県)国替(くにがえ)後の処理をめぐって旧領越後(新潟県)の新領主堀秀治(ほりひではる)と対立していたが、1600年6月徳川家康の上洛(じょうらく)要請を拒んで会津攻めを受けると、翌月石田三成(みつなり)挙兵に呼応する形で越後に出兵した。大国実頼(おおくにさねより)、佐藤甚助(じんすけ)らの上杉軍は六十里越(ごえ)、八十里越、津川口の三方から越後の魚沼(うおぬま)、古志(こし)、蒲原(かんばら)地方に侵入して旧領民の一揆を促し、下倉(したぐら)、蔵王堂(ざおうどう)、栃尾(とちお)、三条、菅名(すがな)、津川などの堀方支城を攻めたが、堀氏の反撃により敗れた。この一揆と戦いは広く中越地方を覆い2か月近くにわたった。一揆の中心となったのは農村上層の地侍(じざむらい)、名主(みょうしゅ)たちとみられ、堀氏の厳しい戦後処理によって中世的な古い農村は解体し、この地方の兵農分離に大きな画期をもたらしたと評価される。
[藤木久志]
『藩政史研究会編『藩制成立史の綜合研究 米沢藩』(1963・吉川弘文館)』▽『小村弐著『幕藩制成立史の基礎的研究』(1983・吉川弘文館)』