三毛庄(読み)みけのしよう

日本歴史地名大系 「三毛庄」の解説

三毛庄
みけのしよう

中世三毛郡(三池郡)内にあった庄園。三池庄ともいった。中世の三毛郡は国衙領三毛北みけほく郷・三毛南みけなん郷および三毛庄に編成され、三毛庄の構成村落(名)北郷南郷双方にまたがって分布していたとみられる。庄域はほぼ現大牟田市の北部の白銀しらがね川・堂面どうめん川流域を中心としていたと推定される。建仁元年(一二〇一)の高良宮造営田数注文によれば高良こうら(現久留米市)上宮拝殿造営に充てられた三毛庄の田数は五五八町。なお公称である「三毛」に対する私称として庄園領主側から「三池」が用いられ始めたとみられ、また鎌倉時代には三毛北郷であった部分は三毛(三池)庄北郷、三毛南郷であった部分は三毛(三池)庄南郷ともよばれるようになり、観応二年(一三五一)七月一九日の近衛基嗣楞伽禅寺私記(海蔵院文書/南北朝遺文(九州編)三)には「三池庄南北」とある。庄園としての成立時期や成立事情などは不明。「兵範記」仁安三年(一一六八)八月一五日条にみえる「毛三」庄は当庄をさし、同日の山城石清水いわしみず八幡宮放生会においてよど川渡舟四、五艘を献じている。

三毛庄
みけのしよう

紀ノ川南岸にあり、下三毛しもみけ・上三毛の地域を荘域としたと考えられる。建久二年(一一九一)二月日付伴盛家陳状案(仁和寺記録)に「三毛庄」の住人「三毛太郎」という地名を名乗る武士の名がみえる。徳治二年(一三〇七)八月日付阿河庄地頭披陳状并頼聖具書案(又続宝簡集)に三毛庄は「山門領、地頭六郎心浄・月七郎左衛門尉、不知実名、為高野合戦没収之地、拝領富樫介入道之後返給心浄了」とあり、延暦寺領であったことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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