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近衛兼経 このえ かねつね

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

近衛兼経 このえ-かねつね

1210-1259 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
承元(じょうげん)4年5月4日生まれ。近衛家実(いえざね)の3男。右大臣をへて,嘉禎(かてい)元年(1235)左大臣。3年摂政,氏長者となり,のち太政大臣,関白を歴任。従一位。九条道家(みちいえ)の娘仁子を妻とし,近衛・九条両家の不和を解消した。正元(しょうげん)元年5月4日死去。50歳。号は岡屋。日記に「岡屋関白記」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

近衛兼経

没年:正元1.5.4(1259.5.27)
生年:承元4.5.4(1210.5.28)
鎌倉時代の公卿。摂政・関白家実と藤原季定の娘の子。権中納言,内大臣,右大臣を経て嘉禎1(1235)年左大臣。当時朝廷で権勢を振るっていた九条道家は近衛家との融和を図り,3年娘仁子を兼経の妻とし摂政を譲った。仁治3(1242)年1月関白となるが,後嵯峨天皇の即位で関白を辞す。寛元4(1246)年前将軍九条頼経の陰謀発覚により九条家が失脚し,翌年再び摂政となる。建長4(1252)年摂政を弟兼平に譲る。また鷹司第その他の財産を分与し,その子孫が鷹司家となった。晩年宇治の岡屋殿に住み,「岡屋殿」と称された。日記『岡屋関白記』がある。<参考文献>高群逸枝『平安鎌倉室町家族の研究』

(吉田早苗)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

このえかねつね【近衛兼経】

1210‐59(承元4‐正元1)
鎌倉中期の公卿。岡屋関白殿と称せられる。父は関白太政大臣近衛家実,母は前中納言源雅頼の女,実は兵部大輔藤原季定の女である。1222年(貞応1)元服して禁色昇殿を許され,正五位下侍従として出仕,爾来中納言,大納言を経て27年(安貞1)に右大臣,35年(嘉禎1)に左大臣に昇り,翌々年舅氏九条道家の譲りにより摂政となる。ついで38年(暦仁1)左大臣を辞任するが,40年(仁治1)冬に明年の四条天皇の元服加冠のために太政大臣となり,41年天皇の元服加冠ののちに辞任した。

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367日誕生日大事典の解説

近衛兼経 (このえかねつね)

生年月日:1210年5月4日
鎌倉時代前期の公卿
1259年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典内の近衛兼経の言及

【鷹司家】より

…鎌倉時代の初めから近衛・九条両家の対立が激しくなったが,承久の乱後,九条道家とその3人の子が相ついで摂関の地位を占め,九条家の全盛をほこった。しかし1246年(寛元4)に起きた前将軍藤原頼経(道家の男),名越(北条)光時らの謀反陰謀事件により,道家とその男摂政実経が失脚し,近衛兼経が摂政に再任されて,近衛家の得意時代を迎えた。兼経は朝政刷新を目ざす後嵯峨院政の重鎮として,禁中・院中にわたり勢威をふるったが,52年(建長4)弟の兼平に摂政を譲った。…

※「近衛兼経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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