上座郡(読み)じようざぐん

日本歴史地名大系 「上座郡」の解説

上座郡
じようざぐん

筑前国南東端に位置し、西は下座げざ郡・夜須やす郡、北は嘉麻かま郡、豊前国田川郡、東は豊後国日田郡、南は筑後川を挟んで筑後国生葉いくは郡・竹野たけの郡に接する。近世の郡域はおよそ現朝倉あさくら郡の東部にあたる宝珠山ほうしゆやま村・小石原こいしわら村・杷木はき町・朝倉町および甘木市東端部にあたる。

〔古代〕

「延喜式」民部上、「和名抄」諸本に上座とみえ、文字の異同はない。九条家本「延喜式」の傍訓は「カムツアサクラ」、「和名抄」名博本の傍訓は「カムツアサクラ」であるが、東急本・元和古活字本では下座郡を「下都安佐久良」と訓じ、当郡の訓を「准上」とすることから、「かみつあさくら」と読む。アサクラ郡(表記は旦座郡か)が上下に分割された名称で、「上座」という二字表記が確定した後、「かみつくら」「じょうざ」の訓が生じたと考えられる。「日本書紀」斉明天皇七年(六六一)五月九日条によると、百済救援のため西下した斉明が磐瀬いわせ行宮(現福岡市南区に比定)から朝倉橘広庭あさくらのたちばなのひろにわ宮に移っており、同宮の比定地として近年は現杷木志波しわ地区が有力である。大宝四年(七〇四)二月一一日の大宰府移案(保安元年六月二八日観世音寺公験案「大宝四年縁起」大東急記念文庫蔵)は、当郡の把岐野を観世音寺(現太宰府市)に施入する際の文書で、その所在を「竺志前国上旦鹿郡」と記す。「上旦鹿郡」は「上旦座郡」の誤写と考えられ、これが郡名の初見となる。康和三年(一一〇一)三月一六日の大宰府政所下文案(横浜市立大学所蔵文書/平安遺文一〇)によれば、把岐はき(現杷木町)は「本願天皇」すなわち天智天皇が御遊した荒野であるとの伝承を有していた。この土地は延喜五年観世音寺資財帳の薗団(圃か)地章にも、大宝年間に施入された「上座郡把伎野」として記されるほか、水田章には上座郡の墾田二五町六歩のうちに「把伎田」もみえ、庄所章には「把(伎)庄 有上座郡」とある。これらをもとにして観世音寺領把岐庄が成立する。その関係文書が保安元年(一一二〇)六月二八日の観世音寺公験案「把岐御庄松永法師相論公験」(東南院文書/平安遺文四の一二七二・一二七五・一二七七・一二七八号)、同じく公験案「把岐御庄勘返田沙汰文書」(横浜市立大学所蔵文書/平安遺文一〇の四九四三・四九四七・四九五一・四九五四号)として伝来している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報