上恩方村(読み)かみおんがたむら

日本歴史地名大系 「上恩方村」の解説

上恩方村
かみおんがたむら

[現在地名]八王子市上恩方町

下恩方村の北から西にわたる村域で、村内中央を案下あんげ(佐野川往還)がほぼ案下川(北浅川)と並行して通る。この道は甲州脇往還または裏甲州路とよばれ、西端の陣場じんば(陣馬山)直下和田わだ(案下峠とも)を越えて相州佐野川さのがわ(現神奈川県藤野町)へ通じる道であった。慶長六年(一六〇一)および慶安三年(一六五〇)検地帳(草木家文書など)が残る。田園簿に村名がみえ、田八石余、畑四二三石余で幕府領、ほかに紙舟役永一貫五文。寛文七年(一六六七)検地で高五一二石余、田三町九反余・畑八九町六反余の打出しがあり(小川家文書など)元禄郷帳では高五二七石余。享保五年(一七二〇)の村明細帳(草木家文書)によれば、田三町九反余・分米三〇石余、畑八九町六反余・分米四八二石余。幕府領で、野銭永三貫文・大豆一石二升余・荏一石五斗余・餅米・漆七九盃余(代永九貫七一六文)・紬売出永二八八文(一端永一八文)・綿売出永四貫二九〇文余(綿一〇〇目永五五文)・紙舟役永三貫五文(一艘永一四三文余)などを負担した。家数は本百姓二六〇・寺一一、人数一千一六〇、馬九八、鉄砲九四。医師二・大工四・木挽一・商人五・小荷駄馬喰二。小仏こぼとけ駒木野こまぎの両宿の「大助伝馬」役を勤めていた。また長さ三間・横三間半の「御関所御番所」があり、番頭二人・番人三六人(百姓の交替制)が詰めていた。大助郷は天明六年(一七八六)以降定助郷になった(文政四年「村明細帳」同文書)。馬数が多いのは薪炭運搬佐野川往還の荷物運搬などに用いられたためという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報