下印食村
しもじきむら
[現在地名]岐南町下印食・みやまち・八剣
印食新田の北に位置し、北は上印食村、西は境川を挟んで下川手村(現岐阜市)。上・下に分れたのは近世で、それ以前は食とも記した。天正一四年(一五八六)以前は境川が木曾川本流路で、当地での渡河点を食渡とよんだ。交通の要所で、承久三年(一二二一)の承久の乱の際、鎌倉幕府軍が遠江国府に着いたことを知った朝廷は、食渡に急ぎ軍勢を派遣しており(「吾妻鏡」同年六月三日・一二日条)、ここでの両軍の動静は「承久記」などにも記されている。建武五年(一三三八)一月、再度西上をめざす北畠顕家軍を阻止すべく、足利方の小笠原貞宗・芳賀禅可は当地でこれを迎え撃ったが敗れた(「太平記」巻一九)。永正一四年(一五一七)一〇月一五日付で本願寺実如が下付した願正坊(現岐阜市)蔵絵像の裏書に「葉栗郡上門間庄本庄郷下食村河野門徒」とみえ、弘治三年(一五五七)一二月一七日斎藤義龍は印食村内那波領と三宅村内西海寺領の合せて一〇〇貫文を常在寺(現岐阜市)に寄進している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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