(小和田哲男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
安土(あづち)桃山時代の武将。通称三七郎(さんしちろう)。信長の三男、信雄(のぶかつ)の異母弟。1571年(元亀2)北伊勢(いせ)の神戸具盛(かんべとももり)を織田氏が征服したのち養子として入り、神戸信孝ともいう。伊勢長島、越前(えちぜん)の一向一揆(いっこういっき)との戦闘、雑賀(さいか)攻め、荒木村重の有岡城攻略などに従軍、82年(天正10)四国攻めの総大将として摂津にあるとき本能寺の変となる。山崎合戦では羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉と連合して明智光秀(あけちみつひで)を討つ。清洲(きよす)会議では継嗣(けいし)を望んで次兄信雄と争ったが、秀吉に退けられ、長兄信忠(のぶただ)の遺領美濃(みの)(岐阜県)を得て岐阜城主となる。柴田勝家(しばたかついえ)と連合して秀吉に対抗、岐阜城を囲まれ降伏、83年再挙、柴田滅亡により城を出て、尾張(おわり)知多郡内海(愛知県南知多町)に移り、野間(美浜(みはま)町)大御堂寺(おおみどうじ)(現、安養院)で自尽する。5月2日、4月29日など異説がある。法名昭雲院殿高厳徳公。
[脇田 修]
安土桃山時代の武将。信長の三男。幼名は三七(郎)。信長が北伊勢を征し神戸(かんべ)具盛と和したとき,その養子とされる。各地の一向一揆平定などで戦功をあげる。1582年(天正10)6月,四国攻めのため摂津住吉浦に滞陣中,本能寺の変に遭い,軍を返して羽柴(豊臣)秀吉とともに明智光秀を破る。その後兄信雄(のぶかつ)と織田家の継嗣をめぐって争うが果たせず,柴田勝家が秀吉と争うに至ると勝家にくみした。同年12月いったん秀吉に和を請うが,翌年賤ヶ岳の戦で再挙兵,信雄に攻められ降伏。尾張知多郡で自刃。
執筆者:久留島 典子
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1558~83.4.29/5.2
織豊期の武将。信長の三男。伊勢神戸(かんべ)氏を継いで神戸三七(さんしち)とよばれた。1582年(天正10)四国遠征直前に本能寺の変をきき,豊臣秀吉に合流して明智光秀を破った。兄信雄と織田家の後継を争った清須(きよす)会議の結果,甥秀信が家督を相続,信孝は美濃国岐阜城主となる。その後秀吉の処遇に不満をもち,柴田勝家と結んで打倒をはかったが失敗し,尾張国野間で自害した。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…1583年(天正11)4月近江国賤ヶ岳付近でおこなわれた羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家の戦い。織田信長の死後,秀吉と勝家の勢力争いに信長の遺子信雄(のぶかつ)と信孝の争いが加わったものである。1582年12月秀吉は越前北ノ庄の勝家が雪で兵を出せないのに乗じて,勝家の属城近江長浜城を攻略,勝家と結んだ岐阜城の信孝を下した。翌年正月勝家と結んだ滝川一益が伊勢で挙兵したので,秀吉は信雄と結んで攻撃した。勝家は雪どけを待って佐久間盛政を先発させ,北国街道の柳ヶ瀬に陣した。…
…1582年(天正10)6月13日羽柴(豊臣)秀吉,織田信孝らが山城乙訓郡山崎付近で明智光秀を破った戦い。備中高松城を攻囲中に本能寺の変を知り直ちに毛利氏と講和,6日播磨姫路に帰った秀吉は,摂津の諸将を糾合して富田に着陣,信孝らの兵を合わせ,軍を山手,中手道筋,川手の三手に分け13日進撃し,一方これより前に山崎の天王山を占領させていた。…
※「織田信孝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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