日本大百科全書(ニッポニカ) 「下和田村治左衛門」の意味・わかりやすい解説
下和田村治左衛門
しもわだむらじざえもん
(1765―1836)
近世最大規模の百姓一揆(いっき)とされる甲州一揆(1836)郡内(ぐんない)衆の指導者。森氏、屋号森戸(もりど)、通称は武七(ぶしち)。甲州道中猿橋(さるはし)宿に近接した山村、下和田村(山梨県大月市)の貧農。山畑農業のかたわら郡内絹の仲買いをしたり、香具師(てきや)と交わり関東周辺諸国を回っていたが、1830年代の初め、いわゆる天保(てんぽう)の飢饉(ききん)の際、いよいよ貧困化してゆく農民層と、そのなかでさらに富裕化してゆく富農、商人資本、それらと癒着して腐敗を深める政治的支配層をみて憤る郡内一揆衆に推されて36年(天保7)8月総頭取(とうどり)となる。病躯(びょうく)を押して陣頭にたったが、一揆が甲州国中(くになか)地方に進み、国中衆が加わってから暴徒化したので中途から単身帰村。支配側の探索に応じて自ら出頭して入牢。同年11月石和(いさわ)牢内にて病死、70歳。下和田村の花井寺に葬る。法名、的翁了端信士。墓碑は現在大月市の指定文化財となっている。
[小林利久]
『『大月市史 史料篇・通史篇』(1951、53・大月市)』