下大塚村(読み)しもおおづかむら

日本歴史地名大系 「下大塚村」の解説

下大塚村
しもおおづかむら

[現在地名]藤岡市下大塚

あゆ川が西境を北流し、東は藤岡町、南は中大塚村、北は本動堂もとゆるぎどう村・篠塚しのづか村と接する。「名跡考」に「大前方廃今大塚村或是耶」とあるように、古くは上・中・下の大塚村は一村で大前おおさき村と称したという。一帯高山たかやま御厨内で大塚郷と称された。徳治三年(一三〇八)二月七日の関東下知状(東京国立博物館蔵)は、「高山御厨北方内大塚中□□□」預所前隼人正親鑒と小林道義跡の一分地頭職善朝清妻大江氏との相論裁許状であるが、両郷内の大江氏知行分の田畠在家は下地を五分し、二分を親鑒方が取るとある。


下大塚村
しもおおつかむら

[現在地名]龍ケ崎市大塚おおつか

小野おの川右岸の台地にあり、東南板橋いたばし村、西は上大塚村。正保年間(一六四四―四八)以後上大塚村と分村と伝え、元禄郷帳の村高は二七一石余。天明七年(一七八七)から村の一部が旗本小栗氏領となり、天保四年(一八三三)以降は高一六八石余、面積一九町余が小栗氏の支配地であった(「長戸村沿革」関口家文書)。文化一一年(一八一四)の造船証文(関口家文書)に「新造伝間造茶船壱艘長弐丈壱尺、横三尺右之船新調造立仕小野川通船稼仕度」とあり、年貢米・薪炭の輸送に小野川を利用した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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