下野裏街道
しもつけうらかいどう
越後街道の坂下宿(現会津坂下町)から南に分岐し、下野街道(会津西街道)の大内宿(現下郷町)に至る六里三八町の道程で、越後諸侯の参勤交代路に用いられ、また海産物などを若松城下を通過せず最短距離で江戸まで運んだ交易路でもあり、越後下野街道ともよばれ、坂下付近では八反道ともよんだ。葉林村(現会津坂下町)の一里塚は坂下一里塚からの行程で、これによってもこの街道は越後からの江戸上りを優先したことが知られる。高田村(現会津高田町)はこの街道の駅所で「新編会津風土記」に「越後国より下野国に通る駅所にて、村中に官より令せらるる掟条目の制札あり、河沼郡坂下組坂下村駅より、二里三十二町四十間此に継ぎ、此より二里一町三十間東尾岐組市野村駅に継ぐ」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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