大内村(読み)おおうちむら

日本歴史地名大系 「大内村」の解説

大内村
おおうちむら

[現在地名]下郷町大内

中倉なかぐら村の北、阿賀あが川支流小野おの川上流域の山村。大地とも書き、地元では「おおち」ともいう。会津若松から下野今市に至る下野街道の宿駅村。北は大内峠・氷玉ひだま峠を越して関山せきやま宿(現会津本郷町)に至る。北西境の市野いちの峠越で市野村(現会津高田町)へ至る道が下野街道から分岐する。古くは山本やまもと村と称していたが高倉宮が通行後、大内と改めたと伝える(新編会津風土記)御側原おそばがはらに高倉宮の伝説にちなんだ桜木姫のものと伝える墳墓がある。大谷地おおやちなどに縄文土器の出土する遺跡がある。「伊達治家記録」天正一八年(一五九〇)五月九日条に「大地」とみえ、小田原参陣のため伊達政宗が大地まで到着したが、そこから先は北条氏領のため引返し、別路で小田原に至っている。南山御蔵入領楢原組に属する。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高三〇九石余。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」では楢原ならはら郷のうちに村名がみえ、端村に沼山ぬまやまがある。

大内村
おおちむら

[現在地名]智頭町大内

郷原ごうばら村の南から東にかけてを村域とし、集落は千代川沿いに形成されている。室屋むろや横根よこね鍛冶屋かじや酒屋さかや木俣きまた河合かわいの六集落があり(因幡志)、河合で千代川に北股きたまた川が合流する。智頭街道が通り、毛谷けだに村から千代川に架かる土橋を渡ると当村に至る。享保年間(一七一六―三六)の洪水で河道が変わる以前の橋は郷原村にあり、智頭街道も毛谷村から同村を経、橋を渡って当村に入っていたが、この洪水後、街道は毛谷村から直接当村へ続くようになったという(因幡志)。智頭街道は古代以来、播磨・美作と因幡を結ぶ幹道で、正慶四年(一三三五)五月下旬、後醍醐天皇が伯耆から播磨へ向かう途中、当地平左衛門方で一夜を過ごし(草木城に一泊したとも伝えられる)、そのとき大内村の名を賜ったという(因幡志)。藩政期の拝領高は九六石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高一〇五石余、毛付高一四三石余、本免六ツ一分、同年の物成高八一石余、ほかに川役米二斗・藪役銀七三匁六分が課されていた。

大内村
おおうちむら

[現在地名]丸森町大内

筆甫ひつぽ村の北東方一帯で、集落は雉子尾きじお川とその支流黒佐野くろさの川・おにさく川・空久保そらくぼ川・青葉あおば川などの川沿いに点在する。東は鹿狼かろう(四三〇・一メートル)を境に杉目すぎのめ(現福島県相馬郡新地町)と接し、北は伊手いで村。従来当村は伊具口いぐぐち相馬境そうまざかいと称されていた。正保郷帳に田一一二貫八八一文・畑一八貫五七〇文とあり、ほかに新田四貫五九二文。「安永風土記」では田一二五貫五〇七文・畑一八貫八四七文で、蔵入七貫七九六文、ほかは給所とあり、伊達家譜代の一族格中島氏の所領であった(「伊達世臣家譜」ほか)。人頭七四人、うち寛永一九年(一六四二)の検地での竿答百姓七一人、家数八〇、男二八三・女二三六、馬二七〇。

大内村
おおちむら

[現在地名]溝口町大内

大山西麓、日野川支流で西流する大江おおえ川左岸の丘陵地に位置し、南西は添谷そいだに村。元弘二年(一三三二)隠岐に配流された後醍醐天皇の通過地といわれ、おううえの地名などは天皇にちなむとの伝承をもつ。旧集落は現集落から二キロほど東方にあったと伝える。東端を大山道のうちの横手よこて道が通り、通称小柳こやなぎ別れには享和三年(一八〇三)の道標がある。正面に「従是右こやなぎ・ゑび、左ミづくゑ・ゆばら道」、右側面に「願主蓮浄院霊順、吉川右平太、人夫寄進大川原・小柳・栃原・大滝」、左側面に「備前児島郡柳田村奉参詣三十三度供養、先達徳兵衛、施主講中」と刻まれ、大山詣の盛んであった世相の一端を示す。

大内村
おおうちむら

[現在地名]清水市大内

おうち・おおちともいう。鳥坂とりさか村の北東、ともえ川の中流左岸に位置する。きた街道が通る。永正一三年(一五一六)二月八日の霊山寺仁王堂棟札銘写(霊山寺文書)に「駿州庵原郡大内村」とみえる。天文一八年(一五四九)八月一一日の駿府浅間社社役目録(村岡大夫文書)によると、青山放生会流鏑馬郷役として高部たかべ御厨に二貫一〇〇文が割当てられ、大内などが三年に一度交替で負担している。永禄元年(一五五八)八月一三日の今川氏真朱印状(静岡浅間神社文書)にも同様の記載がある。

大内村
おおうちむら

[現在地名]鹿島町大内

蛇行しながら南東流する真野まの(付近では大内川ともいう)の南岸に位置し、東は烏崎からすざき村、北はふくろ村。西の川子かわご村から東に延びる丘陵とその麓に開けた地域で、丘陵の北面に多くの迫があり、その迫を中心に民家が点在している。応長元年(一三一一)八月七日の関東下知状(相馬岡田文書)によると、永仁二年(一二九四)に相馬胤顕の遺領として嫡子胤盛は行方なめかた八兎やつうさぎ村を、胤顕の弟胤実は「大内村」を与えられたが、両村をめぐって両者の間に相論が発生、のち応長元年に和与が成立している。

大内村
おおちむら

[現在地名]大分市下戸次しもへつぎ 大内

九六位くろくい(四五一・七メートル)の西麓、小津留おづる村の東にあり、大野川支流の大内川上流域山間部に位置する。参宮帳写(後藤作四郎文書)によると、天正一八年(一五九〇)七月二〇日戸次庄「あふち之里」の神内源内などが伊勢神宮に参詣している。江戸時代を通じて臼杵藩領で、慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高二七〇石余、利光村組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高九三石余・出来高一七七石余、田高一三五石余・畑高一三四石余。正保郷帳では戸次庄に所属。文政六年(一八二三)は佐柳組(万用集)

大内村
おおちむら

[現在地名]福知山市字大内

由良川の支流土師はぜ川へ南方から竹田たけだ川が合流する所の南にあり、北から東にかけてみや村、西は田野たの村に接する。北流する大内川の河谷を占め、その谷口に大内村の本村があり、谷奥部に大内山田おおちやまだ、中間の本村寄りに後正寺ごしようじの集落がある。

「和名抄」の六部むとべ郷の中心地であったと考えられ、中世は六人部むとべ庄の地。

大内川の谷は、京街道の千束せんぞく(現天田郡三和町)方面から土師川に沿わずに西方へ通ずる間道として古くから利用された。しかし南方の峠越の道は複雑である。

大内村
おおうちむら

[現在地名]備前市大内

山陽道沿い伊部いんべ村の西に位置し、くま山を背後に山陽道沿いに集落がある。慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳に「香登内大内村」とみえ、物成二四三石余・夫米七石余(半役)。寛永五年(一六二八)の検地では朱印高五〇三石余のほか改出高一一一石余(貞享元年「和気郡高目録」池田家文庫)。享保六年(一七二一)には田畠四五町一反余、家数五五・人数三二五、池二ヵ所(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高八一九石余で蔵入。二口高六二九石余、残高五四二石余、うち田方二五町五反余・四二七石余、物成二八九石余、畑方一二町五反余・一一四石余、物成五七石余。

大内村
おうちむら

[現在地名]瀬戸町大内

吉井川西岸、肩背かたせ村の東に位置する。北部に五町余の御林があり、当村と北の南方みなみがた村、肩背村との論山である三谷みたにの御林約一〇〇町余がある(備前記)。吉井川対岸坂根さかね(現備前市)へは船渡しで通じていた。文禄三年(一五九四)八月一三日の富川達安書状(黄薇古簡集)に「大内村」がみえる。この書状は南隣の吉井よしい(現岡山市)との山境相論に関するもので(岡山市の→吉井村、同村百姓中に宛てた二月五日付広林書状(同書)には「大内山」が記される。

大内村
おおうちむら

[現在地名]馬頭町大内

多部田たべた村の南に位置し、北西流する大内川が、村内北部で西流する武茂むも川に合する。常陸太田おおた(現茨城県常陸太田市)黒羽くろばね・馬頭方面を結ぶ道が通る。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高(茨城高等学校図書館蔵)によれば高七五六石余、ほか新田二八石余。同二一年の知行割郷帳(水戸彰考館文庫蔵)では上郷・下郷・おか組に分れ、それぞれ高九一六石余(田方三六〇石余・畑方五五五石余)、六二七石余(田方二三〇石余・畑方三九六石余)、二四五石余(田方四三石余・二〇二石余)、いずれも松平志摩守の給地。

大内村
おおうちむら

[現在地名]山中町大内町

大聖寺だいしようじ川の支流大内谷おおうちだに川に沿った村で、北は風谷かぜたに村、東は富士写ふじしやヶ岳(九四一・九メートル)。集落は大内谷川上流、標高二四五メートルに位置し、その南端にある大内峠を越えれば越前山竹田やまたけだ(現福井県丸岡町)。元禄一四年(一七〇一)の大聖寺領高辻帳(加越能文庫)に「ヲヽチ」の訓を付す。「天文日記」天文五年(一五三六)一〇月七日条に、大内竹千代なる者が江沼郡分校ぶんぎよう(現加賀市)の知行申付を本願寺に依頼したことがみえ、当地に大内氏館跡があったという(西谷村誌)

大内村
おおちむら

[現在地名]野津町王子おうじ 大内

塚田つかだ村の南、王子川東岸にある。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には大内村が塚田村など五ヵ村と一括された一冊が含まれ、村位は上。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高一四九石余。中ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方九六石余・畑方五二石余、日損所ありと注記される。正保郷帳では野津之院に属し、高四二三石余(田方三一八石余・畑方一〇五石余)のうちには塚田村・才原さいばる村分が含まれる。

大内村
おおちむら

[現在地名]伊野町大内

八田はた村の西北、仁淀によど川を隔てて位置する。高岡郡に属し、「土佐州郡志」は「東西二十五町余南北十九町許、戸凡百八其土青黒」と記す。中世末期には土豪波川氏の支配下にあったが、元亀元年(一五七〇)頃長宗我部氏の所領となったと考えられる。年不詳の大内村地検帳では長宗我部氏の直轄地となっている。屋敷数は約一〇〇。

元禄地払帳では総地高六八九石余、うち本田高六四一石余・新田高四八石余。本田のうち蔵入地三二四石余、高岡井損田四一石余、残りは九名の知行、新田のうち貢物地一〇石余、残りは二名の領知。幕末の新田高は鎌田かまだ村と合せて高付される(明治三年郷村高帳)

大内村
おおちむら

[現在地名]加西市大内町

万願寺まんがんじ川を挟んで下道山しもみちやま村の南西に位置する。西は下若井しもわかい村。中世は在田上ありたかみ庄道山村に含まれ、その後時期は不明であるが、道山村は東西に分村した。当村は慶長国絵図にみえる「にし道山村」に含まれ、寛永四年(一六二七)若井・大内の二ヵ村に分れたという(加西郡誌)。正保郷帳に村名がみえ、田方二四四石余・畑方五一石余。領主の変遷は元禄一四年(一七〇一)幕府領となるまでは鍛冶屋かじや村と同じ。宝永元年(一七〇四)から寛保元年(一七四一)まで姫路藩預地(寛保元年「村明細帳」大内町有文書)、宝暦二年(一七五二)から同一三年まで上野高崎藩領(宝暦一〇年「年貢免状」同文書など)、安永六年(一七七七)から天明四年(一七八四)まで大坂城代・常陸笠間藩牧野氏領(天明四年「年貢免状」同文書など)、寛政一〇年(一七九八)から安政二年(一八五五)までは東南ひがしなん村と同じで、以後幕府領のまま幕末に至る。

大内村
おおうちむら

[現在地名]美山町大字内久保うちくぼ 大内

平屋ひらや一〇ヵ村の一。由良川上流に位置し、若狭(小浜)街道に沿った山間集落。川の上流(北東)上久保かみくぼ村、下流(南西)荒倉あらくら村。允恭天皇の皇子木梨軽皇子が罪をえて丹波に下り、この地に紫磨しま城をつくって住んだといい、村名の大内はその大内裏があったことにちなむという伝説がある。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、中世は野々村ののむら庄の地。

大内村
おおちむら

[現在地名]山東町大内

新堂しんどう村の北東磯部いそべ谷の中央に位置する。北の小丘に元亀―寛永年間(一五七〇―一六四四)にかけて磯部甚太夫豊次が居住した小規模の館跡が残り、その夫妻の墓が西の山麓にある。その子新右衛門は福知山藩主有馬豊氏に仕え、筑後久留米くるめ(現福岡県久留米市)転封に際して随従、久留米磯部家の始祖となった。また元亀二年丹波山垣やまがい(現青垣町)での合戦に鉄砲をもって戦功をたてた波多野秀光の墓もこの地内にある。

大内村
おおうちむら

[現在地名]那珂町大内

那珂川の左岸に位置し、東から南は田崎たさき村に接して八溝やみぞ山系の丘陵をなし、北は下江戸しもえど村。水戸より下江戸に通ずる街道が台地の裾を縦貫する。「新編常陸国誌」の大内氏の項に「那珂郡大内村ヨリ起ル、行義ノ三子義高、大内興次郎〔戸村本耕山寺本正宗寺本三系図〕延元元年、花房山大方河原ニ戦フ〔飯野文書〕」とある。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「太内村」とみえ、元禄郷帳に「大内村」とある。寛永二一年の御知行割郷帳によると若林角兵衛ら一〇人の知行とみえる。「水府志料」によると戸数およそ三三。

大内村
おおうちむら

[現在地名]土佐清水市上野うえの

益野ましの川上流の山間にあり、奥猿野おくましの村の枝郷。同村の西に位置する。天正一七年(一五八九)の大内之村地検帳によると検地面積九町七反余、屋敷数六うち居屋敷四。屋敷のうちには高念寺が含まれる。中世名の名残である二ノ名・馬左衛門名がみえ、名本馬左衛門は「名本ヤシキ」に居住。

大内村
おうちむら

[現在地名]三間町大内

三間川の北側に位置する。東は兼近かねちか村、西は古藤田ことうだ村、南は三間川を挟んで是延これのぶ村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「大内村 茅山有、川有、村下ヲ流井手不被上、日損所」と村名がみえ、干害を受けやすい村であった。

大内村
おおちむら

[現在地名]亀岡市東本梅ひがしほんめ町大内

船井郡赤熊あかくま松熊まつくま両村より東北に入った谷間に位置する。近世は船井郡に属す。北および南は山がせまり、東の山から流れ出し、本梅川に注ぐ川に沿って東西に平地が開けている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報