中堂寺村(読み)ちゆうどうじむら

日本歴史地名大系 「中堂寺村」の解説

中堂寺村
ちゆうどうじむら

[現在地名]下京区中堂寺〈粟田あわた町・鍵田かぎた町・きた町・櫛笥くしげ町・しよううち町・西寺にしでら町・坊城ぼうじよう町・まえ町・前田まえだ町・みなみ町・壬生川みぶがわ町・命婦みようぶ町・藪之内やぶのうち町〉・上長福寺かみちようふくじ町・下長福寺しもちようふくじ町・藪之内やぶのうち

東は下京の町地、西は西院さいいん(右京区)西七条にししちじよう両村、南は朱雀すじやく八条はちじよう両村、北は壬生みぶ(中京区)にそれぞれ接する。江戸時代には村内西よりの地を南北に走る御土居おどいが村域を二分していた。平安京の条坊では、朱雀大路を挟んで左京六条一坊及び右京六条一坊の地にあたる。

村名について「京都府地誌」は「中古、街頭ニ中堂寺(中略)ノ仏刹アリ。故ニ後世村名トス」と記す。

応仁の乱以前の様子を記すといわれる中昔京師地図には、大宮大路の西に「中道寺村」が描かれており、ルイス・フロイスの一五七三年五月二七日付書簡中には、織田信長に焼かれた京都の村のうちにchudoと出てくる。また、村名・寺名の別は判然としないが、「長享年後畿内兵乱記」中、永禄元年(一五五八)五月九日に「松永弾正・三好日向守、其外摂丹之衆、吉祥寺・四条道場・七条千乗寺・中堂寺・梅小路陣取」という記事もみえる。

「拾芥抄」西京図には、右京六条一坊四保九町に「故為章領」「等持院領」、同一六町に「等持院領」の表示がある。為章とは高階為章のことと思われる。貴族邸宅としては「五条坊城」の藤原家成亭(「本朝世紀」仁平三年三月二八日条)などがあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報