朝日日本歴史人物事典 「中島三郎助」の解説
中島三郎助
生年:文政3(1820)
幕末の浦賀奉行所の幕臣。本名は永胤。相模国浦賀に生まれ,天保末年父の跡を継いで下田奉行所の与力となる。嘉永6(1853)年ペリー艦隊の来航に際し,浦賀奉行所副奉行を名乗ってアメリカ側と折衝した。安政2(1855)年長崎に派遣されて海軍伝習生となり,同6年軍艦操練教授方出役となった。洋式の軍事技術を習得し,長州(萩)藩の桂小五郎(木戸孝允)に砲術を教えたこともある。元治1(1864)年軍艦頭取出役。明治1(1868)年8月榎本武揚らが幕府艦隊を率いて蝦夷地に赴く際,軍艦開陽の砲術指揮者として同行し,箱館奉行並に就任した。翌2年2月箱館と五稜郭の中間に位置する千代ケ岱陣屋の守備を担当。同年5月政府軍の総攻撃が開始され,11日には箱館が占領され,三郎助は負傷した。政府軍の使者が来て降伏を勧めたがこれを拒み,15日の激戦のさなか,息子の恒太郎(22歳)・房次郎(19歳)と共に千代ケ岱で戦死した。50歳。木鶏と号して俳句を好み,「ほととぎす我も血を吐く思ひかな」が辞世の句といわれる。<参考文献>田島応親「中島三郎助逸事談」(『史談会速記録』203),河野常吉『北海道人名字彙』,加藤祐三『黒船前後の世界』
(長谷川伸三)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報