榎本武揚(読み)エノモトタケアキ

デジタル大辞泉 「榎本武揚」の意味・読み・例文・類語

えのもと‐たけあき【榎本武揚】

[1836~1908]政治家。通称釜次郎。江戸の人。オランダに留学。帰国後、幕府の海軍奉行となる。戊辰ぼしん戦争では箱館の五稜郭ごりょうかくにこもり、政府軍と交戦するが降伏。特赦され、北海道開拓使となる。のち、ロシアとの間で樺太からふと・千島交換条約を締結。文部・外務などの各大臣を歴任。
安部公房による長編小説。を主人公とする評伝風のフィクション。昭和40年(1965)刊行。昭和42年(1967)に戯曲化、芥川比呂志の演出により劇団雲が初演し、第22回文化庁芸術祭賞を受賞した。

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精選版 日本国語大辞典 「榎本武揚」の意味・読み・例文・類語

えのもと‐たけあき【榎本武揚】

  1. 江戸末期の幕臣。明治期の政治家。通称釜次郎。江戸に生まれ、昌平黌(しょうへいこう)に学ぶ。オランダ留学後、江戸開城に際し、幕府艦隊を率いて脱出。箱館五稜郭に立てこもり、箱館戦争を起こしたが、翌年降伏。新政府のもとで海軍中将、諸大臣、枢密院顧問官などを歴任。天保七~明治四一年(一八三六‐一九〇八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「榎本武揚」の意味・わかりやすい解説

榎本武揚
えのもとたけあき
(1836―1908)

旧幕臣、明治政府の政治家、外交官。通称釜次郎(かまじろう)、梁川(りょうせん)と号した。天保(てんぽう)7年8月25日、幕臣榎本武規(たけのり)(1790―1860)の次男として江戸に生まれる。1856年(安政3)長崎海軍伝習所に入り、ペルス・ライケンG・C・C・Pels Rijcken(1810―1889)、カッテンディーケに機関学などを、ポンペに化学を学び、1858年築地(つきじ)軍艦操練所教授となる。1862年(文久2)からオランダに留学。フレデリックスについて万国海律を学ぶ。語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を得て、1867年(慶応3)、幕府の注文した軍艦開陽丸に乗って帰国、同艦の船将となる。1868年(慶応4)海軍副総裁となる。江戸開城、上野戦争で幕府が崩壊したのちも、幕府軍艦の明治政府への引き渡しを拒否、旧幕軍を率いて品川沖から脱走。箱館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)に拠(よ)って政府に反抗、新政権を宣言したが、翌1869年5月官軍に降伏、投獄された。黒田清隆(くろだきよたか)、福沢諭吉(ふくざわゆきち)らの尽力により1872年出獄。まもなく北海道開拓の調査に従事。1874年特命全権公使としてロシアに駐在、翌1875年樺太千島(からふとちしま)交換条約を締結した。1882年駐清(しん)特命全権公使となり、李鴻章(りこうしょう)と折衝、天津(てんしん)条約の調印に助力。1885年帰国。以後、同年逓信(ていしん)、1887年農商務、1889年文部、1891年外務、1894年農商務の各大臣、1892年枢密顧問官を歴任。1887年子爵

 1878年ロシアからの帰途シベリアを横断、各地の地質などを視察。1879年地学協会の創立を唱えて副会長となる。語学に優れ、科学知識も当代一流であった。北海道の地質・物産の調査報告が多く、外地の視察報告もあって、科学・技術官僚としても注目される。五稜郭において、玉砕を決意するに際し、『万国海律全書』が兵火のために烏有(うゆう)に帰すことなきよう、これを官軍に贈ったことは世に知られている。明治41年10月26日没。

[片桐一男 2018年9月19日]

『榎本隆充編『榎本武揚未公開書簡集』(2003・新人物往来社)』『加茂儀一著『榎本武揚』(中公文庫)』


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百科事典マイペディア 「榎本武揚」の意味・わかりやすい解説

榎本武揚【えのもとたけあき】

旧幕臣,明治の政治家。号は梁川(りょうせん)。江戸の生れ。オランダに留学。帰国後1868年海軍副総裁となり,戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も,軍艦引渡しを拒否。幕府艦隊を率いて北海道に上陸,新政権樹立を企図して五稜郭に拠り新政府軍に反抗したが(五稜郭の戦),黒田清隆のすすめで降伏。入獄のうち,黒田の下で開拓使に出仕,以後海軍卿,外相,農商務相などを歴任。
→関連項目大鳥圭介海軍総裁海軍伝習所樺太・千島交換条約咸臨丸五稜郭彰義隊条約改正林董土方歳三

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「榎本武揚」の解説

榎本 武揚
エノモト タケアキ


肩書
農商務相,外相,文相,逓信相,海軍卿

別名
通称=榎本 釜次郎 号=梁川

生年月日
天保7年8月25日(1836年)

出生地
江戸・下谷御徒町

経歴
12歳で昌平黌に入り、嘉永6年幕府伝習生として長崎の海軍練習所に学んだ。安政5年江戸に帰り海軍操練所教授。文久元年開陽丸建造監督を兼ねてオランダ留学、造船学、船舶運用術、国際法などを学び、慶応2年帰国、軍艦乗組頭取、海軍奉行となった。戊辰の役では幕府海軍副総裁として主戦論を唱え、江戸開城後も政府軍への軍艦引き渡しを拒否、明治元年8月全艦隊を率い仙台を経て北海道へ脱走、箱館の五稜郭にたてこもり抗戦した(箱館戦争)。2年降伏して入獄、5年特赦となり、北海道開拓使となった。7年海軍中将兼特命全権公使としてロシアに赴き、千島樺太交換条約を締結。12年外務省二等出仕、13年海軍卿、15年清国在勤特命全権公使として伊藤博文全権と共に天津条約を締結。18年逓信大臣、21年農商務大臣兼任、22年文部大臣、24年外務大臣、27年農商務大臣を歴任。20年子爵。著書に「西比利亜日記」。

受賞
勲一等従二位〔明治19年〕

没年月日
明治41年10月26日

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朝日日本歴史人物事典 「榎本武揚」の解説

榎本武揚

没年:明治41.10.26(1908)
生年:天保7.8.25(1836.10.5)
幕末明治期の軍人,政治家。通称釜次郎,叙任して和泉守,梁川と号す。西ノ丸御徒目付榎本円兵衛の次男。弘化4(1847)年,12歳で昌平坂学問所に入り,のち中浜万次郎塾に学ぶ。安政1(1854)年箱館奉行堀利煕の小姓となり,樺太探検に従う。同3年,長崎海軍伝習所第2期生となり,勝海舟の指導下に軍艦操練,航海術を学び,同5年江戸築地の軍艦操練所教授方出役となる。文久2(1862)年にはオランダ留学を果たし,砲術,造船術,機関学,国際法規などを習得。慶応2(1866)年,幕府注文の開陽丸を回送して帰国し,同艦船将,軍艦頭並などを歴任。大政奉還の前後には上方にあり,明治1(1868)年幕府海軍副総裁となる。徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦に敗れて江戸に下ると,榎本もまた江戸に帰り,自重を求める勝海舟に「一寸の虫にも五分の魂とやら」と書を送って官軍による軍艦接収を拒んだ。同年8月,8隻の旧幕府軍艦を率いて品川沖を脱出し,奥羽列藩同盟軍支援に北上。その後箱館五稜郭に入り「蝦夷共和国」樹立を宣言。列強からも「事実上の政権」との承認を得るが,新政府が甲鉄艦ストーンウォール号を導入するにおよび政治的・軍事的壊滅をみ,明治2年5月降伏(箱館戦争)。戦後2年半の禁固を経て,黒田清隆の北海道開拓事業に出仕,明治7年には海軍中将兼特命全権公使として対露交渉に当たり千島・樺太交換条約に調印。帰路は馬車でシベリアを横断視察し,『西比利亜日記』をなす。その後外務大輔,海軍卿,駐清特命全権公使,逓信・文部・農商務の各大臣を歴任。なお夫人たつは幕府医官林洞海の娘。

(岩下哲典)

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改訂新版 世界大百科事典 「榎本武揚」の意味・わかりやすい解説

榎本武揚 (えのもとたけあき)
生没年:1836-1908(天保7-明治41)

幕末・明治の軍人,政治家。幕臣の次男で通称釜次郎,号は梁川。江戸生れ。1856年(安政3)長崎海軍伝習所に派遣され,62年(文久2)オランダへ留学し自然科学,法学などを広く学んだ。竣工した開陽丸で67年(慶応3)帰国,幕府海軍幹部の道を歩み68年1月徳川新体制のもとで海軍副総裁。江戸開城後も軍艦の引渡しを拒否,主力艦を率いて北海道に渡り蝦夷島総裁に選ばれたが,69年(明治2)新政府軍の総攻撃を受けて降伏した(五稜郭の戦)。出獄後,黒田清隆開拓次官の下で72年開拓使出仕となって北海道開発をてがけ,74年海軍中将兼特命全権公使としてロシアに赴き,樺太・千島交換条約を締結した。帰路シベリアを横断し《西比利亜日記》を記す。80年海軍卿。82年清国駐在全権公使。天津条約では伊藤博文大使を助けた。85年逓信大臣,以後歴代藩閥内閣で農商務,文部,外務の各大臣を務めたが97年足尾鉱毒事件の責めを負って第2次松方正義内閣の農商務大臣を辞任した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「榎本武揚」の意味・わかりやすい解説

榎本武揚
えのもとたけあき

[生]天保7(1836).8.25. 江戸
[没]1908.10.26. 東京
江戸時代末期の幕臣。明治新政府の閣僚。子爵。幕臣榎本円兵衛武規の次男。通称は釜次郎。昌平黌に学び,次いで長崎に派遣されてオランダ人から海軍の伝習を受ける。帰東して海軍操練所教授,文久2 (1862) 年オランダに留学生として派遣され,帰国後海軍奉行となった。戊辰戦争のとき,『開陽丸』ほか旧幕艦数隻を率いて箱館に入り,五稜郭に拠って官軍に抗戦 (→五稜郭の戦い ) 。ロシアとの提携をはかり,北海道に工務授産計画を立てるなど,同地領有の意図をいだいたが,明治2 (69) 年5月官軍に降伏,投獄された。同5年6月開拓使に登用され,1874年には海軍中将。ロシア駐在公使となって樺太=千島交換条約を締結。 80年海軍卿。のち,清駐在公使を経て,85年初代逓信相となった。以後,文相,農商務相,外相を歴任。旧幕臣のなかでは,例のない高い地位を明治政府で占めた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「榎本武揚」の解説

榎本武揚
えのもとたけあき

1836.8.25~1908.10.26

幕末期の幕臣,明治期の政治家。通称釜次郎。号は梁川(りょうせん)。幕臣の子として江戸に生まれる。箱館奉行所に勤め樺太探検に参加,長崎海軍伝習所をへてオランダ留学,1868年(明治元)幕府海軍副総裁。江戸開城後,幕府艦隊を率いて脱走し北海道に蝦夷島政府を樹立,総裁となるが,翌年五稜郭で降伏。このとき黒田清隆に助命され親交を結ぶ。72年出獄,開拓使に出仕ののちロシア公使となり,樺太・千島交換条約を結ぶ。外務大輔・海軍卿・清国公使を歴任。内閣制度創設後は黒田系の政治家として活躍,第1次伊藤・黒田両内閣の逓信相,第1次山県内閣の文相,第1次松方内閣の外相,第2次伊藤・第2次松方両内閣の農商務相を歴任。植民問題にも深い関心を寄せた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「榎本武揚」の解説

榎本武揚 えのもと-たけあき

1836-1908 幕末-明治時代の武士,政治家。
天保(てんぽう)7年8月25日生まれ。榎本左太夫の次男。幕臣。長崎の海軍伝習所にまなび,文久2年オランダに留学。帰国後海軍副総裁。明治元年蝦夷地(えぞち)(北海道)箱館に独立政権をたてるが翌年降伏。5年特赦。8年特命全権公使としてロシアと樺太千島交換条約を締結。のち逓信,文部,外務,農商務の各大臣を歴任した。明治41年10月26日死去。73歳。江戸出身。通称は釜次郎。号は梁川。

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旺文社日本史事典 三訂版 「榎本武揚」の解説

榎本武揚
えのもとたけあき

1836〜1908
幕末・明治時代の政治家
幕臣出身。オランダ留学後,幕府の海軍奉行となる。戊辰 (ぼしん) 戦争の際,幕府海軍副総裁として艦隊を率いて脱走し,箱館(現函館)の五稜郭に拠って官軍に最後の抵抗を行い,降伏して入獄。のちに許され,駐露公使として1875年樺太・千島交換条約を締結。その後,海軍卿,文部・外務大臣,枢密顧問官などを歴任した。

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世界大百科事典(旧版)内の榎本武揚の言及

【樺太・千島交換条約】より

…1875年5月7日,ペテルブルグで榎本武揚,ゴルチャコフ両全権の間で調印され,日露両国間の領土問題を解決した条約。同年8月22日批准,11月10日布告。…

【五稜郭の戦】より

…新政府は蝦夷地に箱館府を設置し,松前藩などがこの警備に当たった。一方,旧幕府海軍副総裁榎本武揚は,1868年(明治1)8月19日,旧幕府軍艦8隻で旧幕臣やフランス人士官らとともに品川沖を脱し,途中仙台で前老中板倉勝静,同小笠原長行,前歩兵奉行大鳥圭介らを加え,総勢2800余人を乗せ,10月20日蝦夷地鷲ノ木(現,茅部郡森町)に上陸した。ついで箱館府知事清水谷公考を青森へ敗走させ,松前城を陥れ,藩主松前徳広を津軽へ逃走させた。…

※「榎本武揚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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