中島永元(読み)ナカジマ ナガモト

20世紀日本人名事典 「中島永元」の解説

中島 永元
ナカジマ ナガモト

明治・大正期の官僚 第三高等中学校校長;元老院議官



生年
天保15年7月16日(1844年)

没年
大正11(1922)年11月10日

出身地
肥前国佐賀(佐賀県)

学歴〔年〕
大学南校

経歴
佐賀藩士に生まれる。藩黌・弘道館文武を修め、ついで蘭学寮に学ぶ。慶応元年(1865年)副島種臣・大隈重信らと共に長崎遊学、済美館に入って蘭学を研究し、傍ら米国宣教師フルベッキ博士について英語を修めた。のち藩が長崎に造った洋学校・致遠館の教官に抜擢される。明治維新後は大学南校に学び、間もなく大学中助教兼中寮長を経て、大寮長に進む。明治3年大学権少丞となり、ついで大阪洋学校校長に転じる。4年文部省に転じ文部権少丞となり、同年の岩倉遣外使節団に随行、欧米各国の教育事情を視察して帰国。以来専ら文部省内にあり、文部大書記官、大学分校長、第三高等中学校校長、文部省参事官などを務め教育制度の確立に尽くす。また女子師範学校設立御用掛なども務めた。21年元老院議官となり、錦鶏間祗候を授かる。24年から貴院議員(勅選)を務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中島永元」の解説

中島永元 なかじま-ながもと

1844-1922 明治-大正時代の官僚。
天保(てんぽう)15年7月16日生まれ。もと肥前佐賀藩士。藩が長崎につくった洋学校致遠館の教官や大阪洋学校長などをへて文部省にはいる。明治4年の岩倉遣外使節団に随行。文部大書記官,第三高等中学校長などをつとめ教育制度の確立につくした。元老院議官,貴族院議員。大正11年11月10日死去。79歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

戒厳令

一般的には指定地域で、国の統治権の全部または一部を軍に移行し、市民の権利や自由を保障する法律の一部効力停止を宣告する命令。戦争や紛争、災害などで国の秩序や治安が極度に悪化した非常事態に発令され、日本...

戒厳令の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android