中村忠一(読み)なかむら ただかず

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中村忠一」の解説

中村忠一 なかむら-ただかず

1590-1609 江戸時代前期の大名
天正(てんしょう)18年生まれ。中村一氏の子。慶長5年11歳で伯耆(ほうき)(鳥取県)米子藩主中村家初代となる。17万5000石。2代将軍徳川秀忠の1字をもらって名とし秀忠の養女と結婚。家老横田村詮(むらあき)をきったことからお家騒動がおきた。嗣子がなかったため死後家は断絶。慶長14年5月11日死去。20歳。駿河(するが)(静岡県)出身。初名は一学。

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朝日日本歴史人物事典 「中村忠一」の解説

中村忠一

没年:慶長14(1609)
生年:天正18(1590)
江戸初期の大名。伯耆国(鳥取県)米子藩の初代藩主。父は一氏。駿河国(静岡県)生まれ。はじめ一学,一忠。慶長5(1600)年,父の死後11歳で米子17万5000石を襲封。2代将軍徳川秀忠の一字を拝領して,忠一と改名御家騒動により領内が混乱し,また忠一は20歳で病死し跡継ぎがいなかったため,中村家は廃絶した。

(長谷川成一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の中村忠一の言及

【伯耆国】より

…【井上 寛司】
【近世】
 1600年(慶長5)関ヶ原の戦の結果,いずれも西軍方であった河村・久米・八橋3郡の支配者,羽衣石城主南条元続は改易に,汗入・会見・日野3郡の支配者,米子城主吉川広家は周防国への転封に処せられた。そのあと伯耆国6郡18万石を領有する中村忠一が米子城主として入封,重臣横田村詮(内膳正)の補佐によって,城郭・城下町の整備を行ったが,09年忠一の病死後改易された。そのあとは,米子城主とされた加藤貞泰が会見・汗入2郡6万石を,八橋城主とされた市橋長勝が八橋郡3万石余を,黒坂城主とされた関一政が日野郡5万石をそれぞれ支配した。…

【米子[市]】より

…1585年(天正13)羽柴(豊臣)・毛利両氏の和議細目が確定し,伯耆国3郡の領有が正式に認められた毛利氏の一族吉川(きつかわ)広家は米子湊山に築城した。1600年(慶長5)関ヶ原の戦の結果転封された吉川氏に代わり,米子城主となった中村忠一は,城郭の整備,郭内の侍屋敷,郭外の町屋敷などの建設を行い,また,深浦の港に入る他国船への課税を免除して,城下町の繁栄をはかった。09年中村氏の改易後,会見・汗入2郡6万石支配の加藤貞泰が米子城主とされたが,17年(元和3)因幡・伯耆2国32万石を支配する池田光政が鳥取城主となり,米子城を家老の池田出羽に預けた。…

※「中村忠一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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