旧ポルトガル領ギニア(現ギニア・ビサウ)の民族解放運動の指導者。ポルトガル領ギニアのバファタでカーボベルデ島出身の小学校教師の家に生まれ、カーボベルデで中等教育を受けた後、リスボン大学農学部で勉学。1952年から1954年にかけて、ポルトガル領ギニアの最初の農業センサスを実施し、ギニアの土地と住民の実情を把握した。1950年代前半期から解放運動と接触をもっていたが、1956年9月19日に、弟ルイス・カブラル、アリスティデス・ペレイラとともにギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を結成して書記長となり、都市部で解放運動を開始した。PAIGCは1959年以後は農村部においても活動を進め、1963年からはギニア共和国に基地を置いて武装闘争を始め、全土の約3分の2を解放地区とするに至ったが、1973年1月20日、カブラルは独立をみることなくギニア共和国の首都コナクリで暗殺された。
[中村弘光]
『A・カブラル著、白石顕二他訳『アフリカ革命と文化』(1980・亜紀書房)』▽『A・カブラル著、アミルカル=カブラル協会編訳『抵抗と創造 ギニアビサウとカボベルデの独立闘争』(1993・柘植書房)』▽『B・デビッドソン著、野間寛二郎訳『アフリカ革命――ギニアの解放』(1971・理論社)』
イエズス会司祭。ポルトガル領サン・ミゲル島(アゾレス諸島)に生まれる。リスボンで教育を受け、1554年インドのゴアにてイエズス会に入り、司祭に叙階された。数か所のコレジオ(大神学校)の院長を務めたのち、1568年(永禄11)に第2代日本布教区長に任命された。1570年(元亀1)6月18日天草(熊本県)の志岐(しき)に上陸、宣教師を招集して志岐会議を開き、新たな宣教師の配置を決定した。1581年まで日本における最高責任者として活躍したが、厳格な性格は日本人を受け入れず、巡察師バリニャーノの日本順応方針と対立し、1583年マカオへ去った。1586年まで同地の神学院長を務め、同年ゴアに赴き、1592年より1597年までインド管区長を務めた。1609年同地にて死去した。
[宮崎賢太郎 2018年2月16日]
ポルトガルの航海者。ポルトガル内陸部の町ベルモンテに生まれ、国王ジョアン2世に仕える。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見の航海に次いで、第二次インド遠征艦隊司令官に任命され、1500年3月、13隻の船を率いてインドに向かった。海流の関係からブラジル沖を通ったガマの航海に倣って大きく南西に針路をとったため、4月22日ブラジル海岸に到着した。これによってブラジルはポルトガル領とされたが、彼が最初の発見者とは断定できない(ブラジル「発見」の問題はまだ解明されない点が多い。カブラルによるブラジル「発見」については、国王マヌエル1世にあてて書いたペロ・バス・デ・カミーニャの書簡に詳しい)。カブラルは「発見」後、インドに渡り、コーチン(現、コーチ)で外交関係を結ぶことに成功した。
[金七紀男]
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ポルトガル人のイエズス会士。サン・ミゲル島の出身。1554年ゴアでイエズス会に入会し,58年司祭に叙階された。1570年(元亀1)第3代日本布教長として来日し,81年(天正9)まで在任した。1570年7月下(しも)在住のイエズス会士を招集し,志岐会議を開催した。71-72,74年の2度にわたり上京し各地の教会を訪問し,織田信長に謁見した。在任中,76年有馬義直,78年大友宗麟ら九州の有力大名が改宗し,教勢は急速に伸展したが,79年来日した巡察師バリニャーノと布教方針をめぐって対立し,日本から転出させられた。のち,マカオの修院長(1583-86),インド管区長(1592-97)の要職につき,インドで没した。
執筆者:岸野 久
アフリカのポルトガル領ギニア(現,ギニア・ビサウ)とカボベルデにおける民族解放運動組織PAIGC(ギニア・カボベルデ独立アフリカ人党)の指導者。1956年9月,PAIGCを創設し,63年1月,彼の指導の下で武装闘争を開始した。73年9月,ギニア・ビサウは独立を宣言したが,カブラルはこの日を見ることなく,73年1月20日に暗殺された。彼は民族解放運動の実践家であり,かつ理論家であった。《著作集》《選集》があり,〈第三世界〉を代表する思想家として,彼の著作は今日でも高く評価されている。
執筆者:川端 正久
ポルトガルの航海者。有数な貴族の家に生まれた。1499年バスコ・ダ・ガマの帰国後ただちに編成された第2回のインド向け船隊の司令官に任命され,1500年にインドに向かった。途中大西洋を大きく迂回して,現在のブラジルを発見し,同地をポルトガルが領有するきっかけを作った。しかしインドではカリカット王と友好関係を結んで商館を建設するという任務に失敗した。その後ふたたびインドに赴くことはなかった。
→トルデシーリャス条約
執筆者:生田 滋
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(浅見雅一)
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1467?~1520?
ポルトガルの軍人。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓を受け,第2次インド艦隊司令長官に任命され,13隻の船団で1500年3月リスボンを出発。4月,ブラジルに漂着しポルトガル領としたのち,喜望峰を経由しインドに到達するも,カリカットとの提携に失敗し敵対。コーチンに移って通商関係を結んだのち帰国した。
1924~73
西アフリカ,ポルトガル領ギニア(現ギニアビサウ)とカボヴェルデの民族解放運動組織(ギニア‐カボヴェルデ独立アフリカ人民党〈PAIGC〉,1956年創設)の代表的指導者。PAIGCは1963年からギニアで武装闘争を開始。しかし,ギニアビサウ独立(74年9月)前に暗殺された。
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…1951年のポルトガル憲法改正により,従来の植民地から海外州となった。56年9月,ギニア・カボベルデ独立アフリカ人党(PAIGC)がA.カブラルの指導下にアフリカ本土のポルトガル領ギニア(現,ギニア・ビサウ)で創立された。63年7月,カボベルデの闘争に関するPAIGC幹部会議が開かれ,以後,民族解放運動がPAIGCによって闘われた。…
…51年のポルトガル憲法改正によって,従来の植民地から海外州となった。 56年9月,民族解放運動組織PAIGC(ギニア・カボベルデ独立アフリカ人党)がアミルカル・カブラルの指導下にビサウで創立された。59年8月,ビサウの造船労働者のストライキにポルトガル軍が大弾圧を加えた(死者50人)のを機に,PAIGCは戦術を武装闘争に転換し,60年PAIGCは独立を要求する書簡をポルトガル政府に送ったが,ポルトガル政府はこれを拒否した。…
…1400年ころから1650年ころまでの,ヨーロッパ人による海外進出が始まり,新旧両大陸におけるその勢力範囲が確定した時期をさす。〈地理上の発見〉の時代とも呼ぶ。
[背景]
1300年ころの西ヨーロッパはビザンティン帝国支配下の地中海東部地域,マムルーク朝支配下の西アジア,エジプトに対して金,銀,銅,奴隷などを輸出し,絹織物などの手工業製品,香料などの東方の産物を輸入していた。この地中海東部地域を起点として地中海を西に向けて横断し,ジブラルタル海峡から大西洋に出て,ヨーロッパ大陸の海岸に沿って北上し,バルト海に入ってロシアに到達する海上貿易ルートが西ヨーロッパの国際経済の大動脈であった。…
※「カブラル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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