日本大百科全書(ニッポニカ) 「カブラル」の意味・わかりやすい解説
カブラル(Amilcar Cabral)
かぶらる
Amilcar Cabral
(1924―1973)
旧ポルトガル領ギニア(現ギニア・ビサウ)の民族解放運動の指導者。ポルトガル領ギニアのバファタでカーボベルデ島出身の小学校教師の家に生まれ、カーボベルデで中等教育を受けた後、リスボン大学農学部で勉学。1952年から1954年にかけて、ポルトガル領ギニアの最初の農業センサスを実施し、ギニアの土地と住民の実情を把握した。1950年代前半期から解放運動と接触をもっていたが、1956年9月19日に、弟ルイス・カブラル、アリスティデス・ペレイラとともにギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を結成して書記長となり、都市部で解放運動を開始した。PAIGCは1959年以後は農村部においても活動を進め、1963年からはギニア共和国に基地を置いて武装闘争を始め、全土の約3分の2を解放地区とするに至ったが、1973年1月20日、カブラルは独立をみることなくギニア共和国の首都コナクリで暗殺された。
[中村弘光]
『A・カブラル著、白石顕二他訳『アフリカ革命と文化』(1980・亜紀書房)』▽『A・カブラル著、アミルカル=カブラル協会編訳『抵抗と創造 ギニアビサウとカボベルデの独立闘争』(1993・柘植書房)』▽『B・デビッドソン著、野間寛二郎訳『アフリカ革命――ギニアの解放』(1971・理論社)』
カブラル(Francisco Cabral)
かぶらる
Francisco Cabral
(1528―1609)
イエズス会司祭。ポルトガル領サン・ミゲル島(アゾレス諸島)に生まれる。リスボンで教育を受け、1554年インドのゴアにてイエズス会に入り、司祭に叙階された。数か所のコレジオ(大神学校)の院長を務めたのち、1568年(永禄11)に第2代日本布教区長に任命された。1570年(元亀1)6月18日天草(熊本県)の志岐(しき)に上陸、宣教師を招集して志岐会議を開き、新たな宣教師の配置を決定した。1581年まで日本における最高責任者として活躍したが、厳格な性格は日本人を受け入れず、巡察師バリニャーノの日本順応方針と対立し、1583年マカオへ去った。1586年まで同地の神学院長を務め、同年ゴアに赴き、1592年より1597年までインド管区長を務めた。1609年同地にて死去した。
[宮崎賢太郎 2018年2月16日]
カブラル(Pedro Álvares Cabral)
かぶらる
Pedro Álvares Cabral
(1467?―1520?)
ポルトガルの航海者。ポルトガル内陸部の町ベルモンテに生まれ、国王ジョアン2世に仕える。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見の航海に次いで、第二次インド遠征艦隊司令官に任命され、1500年3月、13隻の船を率いてインドに向かった。海流の関係からブラジル沖を通ったガマの航海に倣って大きく南西に針路をとったため、4月22日ブラジル海岸に到着した。これによってブラジルはポルトガル領とされたが、彼が最初の発見者とは断定できない(ブラジル「発見」の問題はまだ解明されない点が多い。カブラルによるブラジル「発見」については、国王マヌエル1世にあてて書いたペロ・バス・デ・カミーニャの書簡に詳しい)。カブラルは「発見」後、インドに渡り、コーチン(現、コーチ)で外交関係を結ぶことに成功した。
[金七紀男]