中泉陣屋跡(読み)なかいずみじんやあと

日本歴史地名大系 「中泉陣屋跡」の解説

中泉陣屋跡
なかいずみじんやあと

[現在地名]磐田市中泉

JR東海道本線磐田駅構内の線路部分から南の市街地御殿ごてん地区にかかる一角で、中泉ちゆうせん寺の東側にあった。中泉代官所ともよばれる。陣屋の設置は天正一八年(一五九〇)浜松城主堀尾吉晴によるともいわれる。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦後、徳川氏による遠江支配の復活に伴い、代官頭の一人である伊奈忠次の下代岡田五郎助・岡田郷右衛門・袴田善兵衛・石原源兵衛・石河善左衛門らが当陣屋を拠点に遠江の徳川氏直轄料を支配した。同一四年以降徳川頼宣領国期の中泉代官は大石十右衛門(康正)・豊嶋作右衛門(忠次)らで(延宝二年「見付町田畑上納由緒書上」磐田市教育委員会蔵など)、伊奈忠次に代わって駿府政権の一奉行彦坂九兵衛の配下に置かれた(年未詳正月「豊嶋忠次触書」石橋文書など)。元和五年(一六一九)頼宣の転封後は再び当陣屋を拠点とした遠州幕府領支配が行われるようになり、中泉代官は中野七蔵(重吉)が就任、寛永元年(一六二四)まで在任したのちは中野七蔵の子吉兵衛(重弘)、同二年から高室金兵衛(昌重)が就任した(年未詳「歴代見付宿支配代官書上」磐田市教育委員会所蔵文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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