日本大百科全書(ニッポニカ) 「羽倉簡堂」の意味・わかりやすい解説
羽倉簡堂(はくらかんどう)
はくらかんどう
(1790―1862)
江戸後期の幕吏、儒学者。字(あざな)は士乾(しかん)。外記(げき)また用九(もろちか)と称す。大坂の人。代官の父に従って豊後(ぶんご)(大分県)日田(ひた)で長じ、広瀬淡窓(ひろせたんそう)の咸宜園(かんぎえん)にも学ぶ。父の死後代官として三十数年、関東、伊豆七島など諸国を歴任。天保(てんぽう)の改革で水野忠邦(みずのただくに)に抜擢(ばってき)されて納戸頭(なんどがしら)・勘定(かんじょう)吟味役となり、大坂に赴いて御用金上納、生野(いくの)銀山の改革などにあたる。罷免後は隠居したが、1849年(嘉永2)「海防秘策」を阿部正弘(あべまさひろ)に上陳した。著作は生前の『簡堂叢書(そうしょ)』『小四海堂(しょうしかいどう)叢書』、没後の『簡堂遺文』にまとまる。
[黒住 真 2016年6月20日]
『羽倉信一郎編『簡堂遺文』(1933・吉川弘文館)』