日本歴史地名大系 「中洞村」の解説 中洞村なかぼらむら 岐阜県:大野郡高根村中洞村[現在地名]高根村中洞南は飛騨川を挟んで中之宿(なかのしゆく)・猪之鼻(いのはな)両村に対する。縄文時代の遺跡が数ヵ所ある。高山から信州に向かうのに、青屋(あおや)谷から九蔵(くぞう)村の石仏(いしぼとけ)峠を越えて寺付(てらづき)村(以上現朝日村)へ下り、飛騨川を渡って中(なか)山へ上り、尾根伝いに権現(ごんげん)峠まできて当村へ下りた。子(ね)ノ原(はら)高原から流れ出る谷川沿いに池(いけ)ヶ洞(ほら)村から塩沢(しおざわ)へ入り、黍生(きびゆう)を経て石仏山へ上って橋場(はしば)へ下り、さらに神立原(かんだてばら)へ上り野麦(のむぎ)村に出る道は古くから利用された。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳の大野郡阿多野(あだの)郷に村名がみえる(朝日村の→小谷村)。 中洞村なかぼらむら 岐阜県:山県郡美山町中洞村[現在地名]美山町中洞武儀(むぎ)川北岸にあり、南は武儀川を隔てて岩佐(いわさ)村。往古から洞戸(ほらど)(現武儀郡洞戸村)の高賀(こうか)山に行く洞戸街道の要地であった。天正一七年(一五八九)の岩佐村検地帳(山田文書)のうちに「中洞」とか「中ほら」と居住地を記した農民名が若干ある。武儀郡に属し、江戸時代初期は幕府領。元和五年(一六一九)尾張藩領となる。正保郷帳では田方五四石・畑方一五五石余、紙舟役三石余、山年貢五石余。慶安四年(一六五一)の人数二三〇、馬九(明暦覚書)。「濃州徇行記」では家数七七・人数三三八、牛一・馬一三で、森下(もりした)・杉下(すぎした)・西洞(にしぼら)・中野(なかの)の四組に分れ、「農事の余力には紙漉を以て産業とせり、板張紙ばかりをすき売出す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by