小谷村(読み)おたりむら

日本歴史地名大系 「小谷村」の解説

小谷村
おたりむら

面積:二六八・二一平方キロ

北安曇郡の北端、新潟県に境を接する位置にあり、村を貫いて北流するひめ川の谷の両岸や姫川に流入する沢の両岸に小集落や田畑が存在し、村の面積の九五パーセントが山林原野という山村である。冬は日本海側気象の影響で積雪が多く、小谷村大字中土なかつちでの二月の平均は四・三九メートルとなっている。この積雪は古来雪崩を頻発させ、江戸時代この小谷地方を縦貫する糸魚川いといがわ道では物資輸送の人や牛が雪崩により死傷することがあった。小谷村ではこの雪崩を雪撫なでとよんでいる。また北部フォッサ・マグナの小谷村地域は、砂岩・泥岩の互層など岩質との関係や、断層構造や地層の層理面に沿っての滑落などの地質構造との関係、更に水の流入によって岩質が粘性をもつなどの地下水との関係、なお地震などに伴って生ずる地殻変動との関係など、複雑な要素がからみ合って、地すべりの頻発地帯になっており、道路・人家・田畑に被害を及ぼすことが多い。


小谷村
おだにむら

[現在地名]但東町小谷

出合であい村の南東、出石川の流域にあり、出石・福知山道が通る。

〔中世〕

雀岐ささき庄東方(領家方)の一村で、南北朝時代の相論の具書として関係史料が伝わる。貞和五年(一三四九)五月二八日、「増法寺・小谷以下田畠・在家」らが、但馬国大高山凶徒(南朝方)与同輩であった雀岐庄公文志津田彦三郎入道の跡地として、前年に将軍足利尊氏から下文を受けていた門真左衛門尉寂意代快尊に打渡された(「沙弥明心請文案」広橋家文書など、以下断りのない限り同文書)。門真氏は河内国門真かどま(現大阪府門真市)を本貫とする国人であろう。ところが門真寂意は当村と平田ひらた増法寺ぞうほうじ三ヵ村の領家職をも「一円押領」したとして領家の坊門為名家から幕府に訴えられた(貞和五年一二月二五日室町将軍家御教書案)。坊門為名は為輔の子。三ヵ村の領家職を相伝した経緯は明らかではないが、弘安八年(一二八五)の但馬国太田文作成当時、東方の領家職は「尾張三位入道子息三人」がもっていた。この三人とは為輔の兄俊輔の子輔能・俊親・清忠の三人と推定される。


小谷村
おたにむら

[現在地名]甲山町小谷

伊尾いお村の東に位置し、大部分は山地で、西北から南東へ蛇行して流れる大田おおた(現芦田川)流域とその支流域に形成された本郷ほんごう、枝郷の桜瀬さくらせ谷・江下原えげはら谷・井庄原いしようばら谷・八田原はつたばら谷などからなり、主として山麓南面に集落が散在。

文禄三年(一五九四)九月三日の毛利輝元知行宛行状(「閥閲録」所収林平八家文書)に、林元善が輝元から与えられた二千二九〇石余のうちに世良せら郡小谷幡立原はつたばら二九石八斗とある。慶長七年(一六〇二)九月一三日の福島正則の奉行人上月豊後・大崎玄蕃の代官久保田孫右衛門・松村源十郎の連署申渡状(門藤家文書)によると、村のうちで「炭かま二かま」(代二四匁)と、「炭かま一かま」(ゆるしかま)を焼き、御調みつぎ宇津戸うづとの鋳物師に遣わすこととされている。


小谷村
おやむら

[現在地名]会津若松市大戸町小谷おおとまちおや

阿賀川西岸にあり、東の対岸は小塩おしゆう村、南の対岸は芦牧あしのまき村で、北と西は山地となる。五区に分れ、北に坂下さかした、その東に川端かわばた、その南にはら、その西に西村にしむら、その南に細草ほそくさがあり、ほかに本村の南一一町四〇間に端村平沢ひらさわがある(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録の門田もんでん郡のうちに「お屋」とあり、高三三一石余。近世を通じて大沼郡に属したが、組はほとんどの村が会津郡に属する南青木組に属した。


小谷村
こだにむら

[現在地名]東広島市高屋たかや町小谷

東流してきた入野にゆうの川が北に向きを変えようとする所に位置する。入野川の北は三〇〇メートル級の山が連なり、南ははた(四〇四・八メートル)など四〇〇メートル余の山から北に延びる低丘陵の間を縫って入野川に注ぐ幾つかの川が細長い谷を形成する。なかでも東辺の谷は二・五キロに達し、南の田万里たまり(現竹原市)に通じる。西は重兼しげかね村に接する。豊田郡に属した。

地名は天文一二年(一五四三)六月二日の桂保和に宛てた平賀弘保預ケ状(「譜録」所収桂保心家文書)にみえ、「小谷方之内奥之垣内」とある。同一八年二月一三日付平賀弘保奉行人打渡状(同文書)によると、この地は「四貫足」であったが、高屋保とは区別されているので、少なくとも戦国期には独立した地域呼称であったと思われる。


小谷村
こやむら

[現在地名]吹上町小谷

三町免さんちようめん村・前砂まえすな村の南、荒川・元荒川間の沖積低地に位置し、集落の一部が自然堤防上にある。村の南半は荒川の自然堤防上で、現在は堤外地となっている。西は荒川を隔てて横見よこみ地頭方じとうほう(現吉見町)。同村とを結ぶ五反田ごたんだ渡があり、松山(現東松山市)に通じていた。足立郡おし領に属する(風土記稿)。田園簿では田三七二石余・畑五〇〇石余、旗本山本領(五〇〇石)・同太田領(二〇〇石)・同山下(下山)(一六〇石)・同酒依領(一二石)の四給。


小谷村
こだにむら

[現在地名]加西市北条町小谷ほうじようちようこだに

寺内てらうち村の北に位置し、播但山地南東端に立地する。地名の由来は不明であるが、谷は前面をほぼ東西に走る山崎やまさき断層線谷の低地帯を意味するものと思われる。北側に小谷・たに西谷にしたにと並び、南側に吸谷すいだにがあるので地形環境からの命名か。中世は酒見北条さかみほうじように属した。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)によると、木下家定は秀吉から小谷村二石三斗五升などを宛行われている。


小谷村
こだにむら

[現在地名]朝日村小谷

北は飛騨川を挟んで見座みざ村。ヶ岳(一一〇五・六メートル)が南西にそびえ、小谷川が注ぐ飛騨川左岸の平地に集落を形成する。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳の阿多野あだの郷に村名がみえる。中洞なかぼら(現高根村)、小屋野(小屋名村、現久々野町)青屋あおや寺沢てらざわなどの五村とともに高付され高四二〇石余・物成高一二六石余。元禄検地反歩帳の高七三石余、田三町二反余・畑六町二反余。「飛騨国中案内」によれば免は三割九分八厘、家数一八、うち百姓一七・寺一。寛政一二年(一八〇〇)の村明細帳では田三九石余・畑四八石余、うち新田高一四石余、反別田三町九反余・畑八町五反余、家数一七、僧二、人数八五、牛一〇、寺一。


小谷村
こやとむら

[現在地名]寒川町小谷

南は岡田おかだ村、東は大蔵おおぞう村と獺郷おそごう(現藤沢市)に接し、台地上にある。元禄国絵図に村名がみえる。「風土記稿」は岡田村からの分村で、同村およびその枝郷大蔵村との村境が錯綜していると記す。元禄一〇年(一六九七)旗本戸田・高木・森川・長谷川(寛政一二年旗本柳生)領の四給。天保一四年(一八四三)農間商人名前取調書上控帳(県史八)によれば農間商人は一三人おり、質物・菓子果物・穀物・荒物・小切・麹・鍋釜売・糸綿小売・酒小売などであった。


小谷村
こだにむら

[現在地名]日野町小谷

山本やまもと村の西にあり、御代参ごだいさん街道沿いに集落を形成。古墳時代の円墳小谷遺跡がある。蒲生系図(蒲生郡志)によると蒲生氏の祖、蒲生惟賢は平清盛から蒲生郡に所領を与えられ、奥州から当地に移住したと伝える。円林えんりん寺付近には応仁の乱前後に音羽おとわ城に移るまで蒲生氏の本城であった小谷山こだにやま城跡がある。小谷畷は文亀三年(一五〇三)六月一日、音羽城主蒲生貞秀と細川政元の家臣赤沢朝経の合戦が行われた地(重編応仁記)


小谷村
こだにむら

[現在地名]山田村小谷

山田川左岸、村の西方に立地する。正保郷帳に村名がみえ、北隣の北山きたやま村・赤目谷あかめだに村を合せて高一〇四石余、田方一町一反余・畑方五町八反余。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高三四石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高四四石余・定免五ツ二歩五厘、定小物成は山役銀二六匁余・蝋役銀二匁余・漆役銀二匁。ほかに山田川簗漁に伴う川役銀三匁があった(若林家文書)


小谷村
おだにむら

[現在地名]熊取町小谷

熊取谷の最東部、見出みで川右岸に位置し、西は久保くぼ村、東は南郡三松みつまつ村・水間みずま(現貝塚市)。天文二四年(一五五五)八月二二日の明盛田地売券(中家文書)に「熊取谷小谷村之松下カ門」とみえる。古くは大畠おおばた村といったが、元亀(一五七〇―七三)頃「大畠の大谷どの」とよばれた紀伊根来ねごろ(現和歌山県那賀郡岩出町)の僧が住んで乱暴をはたらいたため、恐れて大谷村というようになり、のち小谷村になったと伝える(拾遺泉州志)


小谷村
おやむら

[現在地名]小高町小谷

南東流する小高川の支流まえ川の南岸に位置し、対岸は片草かたくさ村、西は大谷おおたに村。中世にみえる小谷郷の遺称地とされ、於屋とも記される。正平六年(一三五一)一〇月一一日の陸奥国宣(相馬文書)に「行方郡内於屋・大田・牛越・吉名四ケ村」とみえ、南朝方の陸奥守北畠顕信はこれら四ヵ村を軍旅の兵粮用足として安堵することを条件に、相馬親胤に対して参戦を呼掛けている。


小谷村
おだにむら

[現在地名]安芸市小谷

千光寺せんこうじ村の西、尾川おがわ村の南の山間に位置する小村で、西南妙見みようけん山の西側山中を通って穴内あなない村に通じる。北西の三辻森みつじがもり(六七三・六メートル)南方山中に稗尻ひえじり集落がある。延慶元年(一三〇八)二月付の城普請定書(安芸文書)に、出役を割当てられた安芸川沿いの七名の一として「小谷名」がみえる。安芸氏の家臣小谷四郎右衛門の知行地で、「土佐物語」巻六(姫倉金岡落城付小谷専当回忠之事)に永禄一二年(一五六九)安芸氏と長宗我部氏の合戦に、安芸氏の家臣で長宗我部側に走った小谷四郎右衛門が、穴内村より稗尻・小谷を経て間道伝いに安芸城背後に長宗我部軍を案内し、落城を早めたことが記される。


小谷村
こだにむら

[現在地名]宍喰町小谷

角坂かくさか村の北に位置し、日比宇ひびう川が南流する。北河内きたごうちの毘沙門堂に応永二九年(一四二二)銘の鰐口があり、「細野御前」と記される。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では当村名は記されないが、地内の「日びう村」が記載される。正保国絵図では小谷村の記載はなく、村内の「日比宇村(「ひゝウ」の訓を付す)がみえる。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では宍喰浦の枝村として「日比宇村」「北河内村」がみえる。


小谷村
おおたにむら

[現在地名]余呉町小谷

今市いまいち村・池原いけはら村の北、余呉川上流の山村。「おだに」ともよぶ。同川に並行して北国街道が通る。西境行市ぎよういち山に中世京極氏・浅井氏配下の東野行一が居城したと伝え、天正一一年(一五八三)賤ヶ岳の戦では佐久間盛政の陣が営まれた。行市山から北方やな(中尾山)の柴田勝家本陣まで軍道が築かれ、途中大谷おおたに山には不破勝光の砦が置かれたという。行市山の東方栃谷とつたに山には徳山五兵衛・金森五郎八の砦跡があり、毛受兄弟戦死の地ともいう(以上「輿地志略」)。当地はもと大谷と称したと考えられ、豊臣秀吉の臣大谷吉継の出生地といい(温故録)、また「輿地志略」にも大谷村と記される。


小谷村
こだにむら

[現在地名]宮川村小谷

こう山から流れ出て西流する小谷川中流にあり、上小谷と下小谷に分れる。小谷川をさかのぼるとそで峠を越えて数河すごう(現古川町)、下流は大無雁おおむかり村。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳では小島こじま郷に属し、高一二石余。元禄検地帳(宮川村文書)では稗田一町四反余、畑屋敷四町一反余、高一二石余、ほかに桑楮九七束・焼畑一三町三反余とあり、水田はない。名請人および屋敷を有する者八。「飛騨国中案内」では免三割五分三厘、家数一六(うち百姓一二・門屋四)。安永三年(一七七四)新田検地(宮川村文書)では高一八石余・反別一七町余、名請人一三。「斐太後風土記」によれば、村域縦五〇間・横四〇間、家数一四・人数一〇〇余。


小谷村
うくくむら

[現在地名]佐敷町小谷おこく

新里しんざとう村の西に位置する。絵図郷村帳に島添大里しましーうーざとう間切のうち「おこく村」とみえる。琉球国高究帳でも同様で、高頭七八石余のうち田六八石余(うち永代荒地四石余)・畠九石余。絵図郷村帳に付記される乾隆帳(乾隆二年簿か)に大里間切より「おこく村」が編入したとあり、その下に小谷村と記される。里積記では佐敷さしち間切のうちに小谷村とあり、諸村位定では田上・畠下。当村では名寄帳に記載される田地のみでは毎年賦米に不足するありさまで、百姓方にも疲弊がみられ、また風水も良くないので、その要請を受けて乾隆三五年(一七七〇)山久比里原に村を移している(「球陽」尚穆王元年正月条)。地内のウィーヌカー(上の井、また小谷子の井とも)・ナカヌカー(中の井)・シムヌカー(下茂の井)のうち、最古の下茂の井は知念按司が開いたという。


小谷村
こだにむら

[現在地名]湯原町本庄ほんじよう 小谷

鉄山かねやま川中流域に位置し、左岸では東は安井やすい村、西は玉田たまた村、右岸では東は上岸かみぎし村、西は石内いしうち村。正保郷帳によれば田高二五石余・畑高二一石余、元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高二七石余・開高一石余。領主の交替は仲間なかま村に同じ。宝暦一四年(一七六四)の村明細帳(矢吹文書)によれば、反別は田方三町七反余・畑方二町六反余、毛付高五七石余、家数二一・人数七一、牛三。出作・入作ともに一四石余を占める。


小谷村
こたにむら

[現在地名]氷上町小谷

西端を佐治さじ(加古川)が流れ、南は鴨内かもうち村、北は東芦田ひがしあしだ(現青垣町)、東は五台ごだい山。「丹波志」は鴨内村の枝村とする。正保郷帳に村名がみえ田高六一石余・畠高七石余、柴山・林あり、水損所あり。幕府領。天和二年(一六八二)旗本水野家(享保一〇年安房北条藩、文政一〇年上総鶴牧藩)領となり(鶴牧藩大概帳)、幕末に至る。同大概帳では田高五四石余・畠高七石余。石高の減少は旱魃による。


小谷村
おたにむら

[現在地名]大山町小谷

神通川水系くろ川の支流砂見すなみ川右岸、東側中腹にある。斜面に階段状に集落が存在した。北はくるみはら村、東は長瀬ながせ村。「おたん」とも発音する。正保郷帳の高一〇八石余、田方三町二反余・畑方四町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一一三石、免五ツ七歩、小物成は山役一〇五匁(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の高免帳(杉木家文書)によれば、元禄七年(一六九四)土不足のため四六石が減石となり、享保八年(一七二三)一石の増石により草高六八石となる。


小谷村
こたにむら

[現在地名]松之山町小谷

東は大荒戸おおあらと村、西は水梨みずなし村。東西に隣接する集落を見下ろす山上の村。東側を北流する川は千年ちとせ(現松代町)境で渋海しぶみ川と合流する。正保国絵図に高一五石余。天和三年郷帳では高一七石四斗余、反別田一町一反余・畑屋敷九反余・山林七反余・青苧畑一反余で、漆木七本、家数一〇。安永九年(一七八〇)の新田検地では高二三石九斗余。田は大荒戸村との間の沢や渋海川支流沿いに北へ向かって開ける。


小谷村
こだにむら

[現在地名]気高町浜村はまむら

浜村の南に位置し、西は村。安政七年(一八六〇)宮川みやがわ村への村名変更が認められ、領内限りで改称した(在方諸事控・藩史)。拝領高は六五石余、本免は四ツ五分。藪役銀二匁二分五厘が課せられ(藩史)、東館家家臣仙石氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によると家数一〇。安政五年の村々生高竈数取調帳によると生高七八石余、竈数六。


小谷村
こたにむら

[現在地名]邑智町小谷、川本かわもと小谷こだに

江川支流の君谷きみだに川下流から西方の祖式そじき川流域に広がる村。北は地頭所じとうしよ村など。中世には君谷村のうちに含まれていたとみられる。貞治三年(一三六四)正月一一日の荒河詮頼安堵状(閥閲録)に「君谷村内小谷村其外村々事」とあり、元徳二年(一三三〇)三月六日に君谷実清は子息道祐にこれらの村々を譲与したことが記されている。


小谷村
こだにむら

[現在地名]八尾町小谷

山中やまなか村の西方、室牧むろまき川右岸の山腹にある。正保郷帳に村名がみえ、村高は尾久おぎゆう村と合せて一四三石余、田方一町一反・畑方八町四反余。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では高一四三石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高九〇石余。幕末の高六九石余で免四ツ一歩(古高免小物成銀等書上)


小谷村
おだにむら

[現在地名]村上市小谷

門前もんぜん村の山間より流れ出て、山裾を北西へ流れて三面みおもて川に注ぐ小谷川左岸にある。北西は日下くさか村、南西は大関村、南は鋳物師いもじ村に接する。文禄(一五九二―九六)の瀬波郡絵図に「小谷村」とのみみえる。東方山間には「小国但馬分黒土山村 下」があり、「本納合弐拾三石弐斗□升」・縄高七二石三斗九升五合四勺、家三軒と記される。


小谷村
おやつむら

[現在地名]益城町小谷

東は杉堂すぎどう村、西南は田原たばる村に接する。慶長国絵図に村名がみえ、近世は沼山津手永に属した。正保郷帳では田一一六石七斗余・畑三三〇石二斗余。「国誌」には「荒瀬ト云小村アリ」とある。文化八年(一八一一)沼山津手永略手鑑では、高七三三石七斗余、田七町三反六畝余・畑五七町八反九畝余で、藍瓶本手五、家根葺札二、馬口労札・水車各一がある。


小谷村
こたにむら

[現在地名]厚田郡厚田村大字小谷村

明治初年(同二年八月―同六年)から明治三五年(一九〇二)までの厚田郡の村。北は別狩べつかり村、西は海。近世はコタンナイなどと記録される地域。「石狩国地誌提要」によると戸口は二四戸・一〇五人(永住二三戸、男六一・女四三、寄留一戸・男一)。三半船二・ホツチ船二・磯船二一。


小谷村
こだにむら

[現在地名]大塔村小谷

日置ひき川から分れた小谷の入口に位置する谷間集落で、北は深谷ふかたに村、南は里谷さとだに(現日置川町)、東は合川ごうがわ村。村名は「続風土記」に「名義名のことし」と記される。


小谷村
こたんむら

[現在地名]珠洲市三崎町大屋みさきまちおおや

大屋村の南西、杉山すぎやま村へ越える峠の麓にある。承応三年(一六五四)能登奥両郡収納帳に村名がみえ、草高三一石余、免一ツ五歩二厘、夫銀六匁余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三四石、免三ツ三歩、新開高四石余、小物成は鳥役一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小谷村」の意味・わかりやすい解説

小谷〔村〕
おたり

長野県北西端,新潟県境にある村。 1955年南・北小谷村と中土村が合体して成立。西部は後立山連峰,東部は妙高火山群に続く山地で,中央を北流する姫川の谷に沿って主要集落があり,JR大糸線,国道 148号線 (糸魚川街道) が通る。林業と米作や雑穀栽培を主にした農村であったが,1960年代後半から観光業が発達。日本海岸気候の豪雪地にあるため,栂池 (つがいけ) ,小谷,北小谷などのスキー場が開かれ,春までスキー客でにぎわう。また白馬岳,栂池高原の登山・観光拠点である。北部に姫川温泉,小谷温泉,来馬温泉などがある。村域の一部は妙高戸隠連山国立公園中部山岳国立公園に属する。面積 267.91km2(境界未定)。人口 2647(2020)。

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