中神琴渓(読み)なかがみきんけい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中神琴渓」の意味・わかりやすい解説

中神琴渓
なかがみきんけい
(1743―1833)

江戸中期の医者。近江(おうみ)国(滋賀県)の出身。名は孚、字(あざな)は以隣、通称は右内、琴渓は号である。近江山田村の農家に生まれたが、大津の医家中神氏の養嗣子(しし)となった。30歳を過ぎてから医学を志し、吉益東洞(よしますとうどう)の医説に深く傾倒し、彼の著作『古方便覧』『方極』を読んで独学自修し、大いに得るところがあった。1791年(寛政3)48歳で京都に移り、医業を開き、古医方を唱えた。医師としての評判は高く、当時の京都の医家の四天王と称された。のち江戸に赴き、また諸国を遊歴して自説を広め、門人は3000人とも伝えられる。『生々堂医談』『生々堂傷寒約言』『生々堂治談』など、門人が記録した著書がある。

[大鳥蘭三郎]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中神琴渓」の解説

中神琴渓 なかがみ-きんけい

1744-1833 江戸時代中期-後期の医師。
延享元年生まれ。医師中神家の養子となる。吉益東洞(よします-とうどう)の学説に傾倒し古医方をおさめる。寛政3年京都で開業した。天保(てんぽう)4年8月4日死去。90歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。名は孚。字(あざな)は以隣。通称は右内。別号に生生堂。著作に「生生堂養生論」「生生堂傷寒約言」など。

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世界大百科事典(旧版)内の中神琴渓の言及

【精神医学】より


[日本]
 日本でも,中国の古医書をもとにした精神病の理論と治療は702年施行の〈大宝令〉の規定以来受けつがれてきたが,これが一応の学問的体系を完成するのは江戸時代中葉である。《一本堂行余医言》全22巻(1807∥文化4)の巻五で精神病を詳述した香川修徳,《療治茶談》(1808)で独特の心疾論を展開した田村玄仙,吐方を一種のショック療法として精神病に用いた中神琴渓,その門下で《吐方論》(1817)を著した喜多村良宅らの貢献が注目される。とりわけ,江戸で10年間に1000人以上の精神病者を治療して名をあげた土田献(翼卿)は日本で最初の精神科専門医と目され,その治療経験をまとめた《癲癇狂経験編》(1819∥文政2)は日本最初の精神医学専門書とみなされる。…

※「中神琴渓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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