古医方(読み)こいほう

精選版 日本国語大辞典 「古医方」の意味・読み・例文・類語

こ‐いほう ‥イハウ【古医方】

〘名〙 江戸初期の漢方名古屋玄医が唱えた医療方法中国の金・元の時代医学を主とする後世方を排斥し、漢代の張仲景の説にかえることを唱えたもの。古方家

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デジタル大辞泉 「古医方」の意味・読み・例文・類語

こ‐いほう〔‐イハウ〕【古医方】

漢方医学で、後漢時代の医学を行う一派。「傷寒論」「金匱きんき要略」などに示された処方を行う。日本では江戸前期から行われ、後藤艮山こんざん山脇東洋らがいる。古方家。→後世方ごせいほう

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百科事典マイペディア 「古医方」の意味・わかりやすい解説

古医方【こいほう】

江戸時代の医学の一派。これに属する医家を古方家という。儒学古学派の運動に対応し,名古屋玄医〔1629-1696〕が主唱したもので,《傷寒論》など唐以前の医学に依拠し,それ以後の医学の陰陽五行空論を排し,実際に即することを主張した。後藤艮山(こんざん)によってほぼ確立した。吉益(よします)東洞は異色の古医方家として一世を風靡(ふうび)した。
→関連項目亀井南冥漢方小石元俊傷寒論華岡青洲前野良沢山脇東洋

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改訂新版 世界大百科事典 「古医方」の意味・わかりやすい解説

古医方 (こいほう)

江戸中期に経験・実証を方法論とし復古主義を唱え,医学の革新をはかった医学の一派。古方(派・家)ともいう。これに対し金元医学にもとづく流派を後世派(家)という。後世派が宋代儒学の理気・性理説と思想的基盤を共通にする医学理論に支配されて,しだいに難解・抽象的理論が先行し,思弁にはしり,観念的となって臨床上の現実から遊離し,論と術がかみ合わなくなったので,それをしりぞけ,現実に即した新しい医学の建設を目ざして生まれたのが古医方である。それは儒学における革新の古学と思想的立場を同じくし,古学に先行して発足したが,その発展には古学思想の影響が大きく,その背景には,当時の商業経済社会の進展に応じ,社会に根ざした経験-客観-実証主義の社会思潮がある。古医方は名古屋玄医の唱道に始まり,後藤艮山(こんざん)を事実上の祖とし,その門下の香川修徳によって自覚的に唱えられ,山脇東洋,永富独嘯庵ら傑出した医家がこの派から出現。また吉益東洞は異色の古医方家として一世を風靡(ふうび)した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「古医方」の意味・わかりやすい解説

古医方
こいほう

漢の張仲景(ちょうちゅうけい)の医学。もしくはそれをもっぱら範とする医学。古方(こほう)ともいい、その学派を古方派という。張仲景は3世紀初頭の人で、その著作と伝えられる書に『傷寒論(しょうかんろん)』『金匱要略(きんきようりゃく)』などがあるが、とくに急性熱性病の複合生薬処方による治療法を述べた傷寒論は、古来薬方運用の規矩(きく)として尊ばれた。明(みん)末清(しん)初中国でこの書を熱狂的に信奉する学派が登場したが、日本では17世紀後半に名古屋玄医がこれに触発されて古医方の重要性を唱え、ついで後藤艮山(ごとうこんざん)がこれを受けた。当初は陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)を基盤とする『黄帝内経(こうていだいけい)』『難経』も許容したが、しだいに『傷寒論』一書を金科玉条とする方向にエスカレートし、香川修庵(しゅうあん)、山脇東洋、永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)、吉益東洞(よしますとうどう)といった古方派の雄が輩出し、江戸時代後期の医界を席巻した。とくに東洞の一刀両断の説は簡明であるがため一般医家の支持を得、近世~現代の日本漢方を特色づけることとなった。しかし実際には『傷寒論』を思うがままに改竄(かいざん)し、自説を主張するに利用したにすぎないという見方もされる。

[小曽戸洋]

『小曽戸洋著『漢方の歴史』(1999・大修館書店)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「古医方」の解説

古医方
こいほう

漢の張仲景(ちょうちゅうけい)著の「傷寒論」を柱とする古典医書の精神を重視する,江戸前期におこった古方派の医家。名古屋玄医(げんい)・後藤艮山(こんざん)・吉益東洞(よしますとうどう)・香川修庵・山脇東洋・尾台榕堂(おだいようどう)らがその代表。室町~江戸前期の日本の医学は中国の金元・明医学が主流であった。これを後世方(こうせいほう)という。ところが宋代から明・清代の中国の一部に「傷寒論」を重視する学風がうまれ,これに触発されたのが日本の古医方のはじまりである。陰陽五行説など中国自然哲学の影響を濃厚にうけた後世方と異なり,実証主義精神に根ざすものとされる。後世方派が奉じた金元医学は朱子らの宋学を背景とするが,古方派は宋学を批判した伊藤仁斎らの古学派に呼応する。なかでも吉益東洞は万病一毒論を提唱し,大衆医家の支持を得た。

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旺文社日本史事典 三訂版 「古医方」の解説

古医方
こいほう

江戸中期におこった漢方医学の一派
名古屋玄医が臨床実験を重んじて,元・明代の李朱(李杲 (りこう) ・朱震享 (しゆしんきよう) )医学の空理・空論を排し,漢代医学への復古を主張した。後藤艮山 (こんざん) ・吉益東洞・山脇東洋もこの派の出身。

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世界大百科事典(旧版)内の古医方の言及

【後藤艮山】より

…江戸中期の古医方派医。江戸出身。…

【永田徳本】より

…知足斎と号し,また乾堂,茅堂ともいった。曲直瀬道三(まなせどうさん)について李朱医学を修めたとされるが,師説にとらわれず空理空論を排して経験的実証主義をつらぬき,張仲景の古医方を重視して作用の強い薬物を好んで使い古医方派の先駆者に位置づけられている。しかしその経歴は伝説的ベールにつつまれ,薬囊を頸に掛け薬籠を背負い牛にまたがって諸国を遊歴,一服18文(16文とも)の薬を売ったり施薬し,某医のすすめで大名(将軍とも)を治療したが賞賜を受けず去ったなどとされ,市井医としての奇行が伝えられる。…

【永富独嘯庵】より

…長門国に生まれ医家永富友庵の養子となり,名は鳳,字は朝陽,通称は昌安のち鳳介と改めた。17歳のとき京都の山脇東洋の門に入り古医方を学んだ。師東洋にはその才能を愛されたが,門弟らは毒舌をはく性格に毒性(どくしよう)な奴と陰口したのをとって独嘯庵と号したという。…

【名古屋玄医】より

…経書を羽川宗純に学び医学は壮年になって志した。明の喩嘉言の《傷寒尚論》《医門法律》を読んで開眼し,当時盛行の李朱医学を捨てて医学の源流にさかのぼり張仲景の古医方にかえることを唱えた。これは伊藤仁斎の儒学における古学提唱より十数年早く時流にさきがけるものであった。…

【山脇東洋】より

…名は尚徳,字は玄飛また子樹,通称は道作,はじめ移山と号した。医を養父に学んだのち,古医方派の後藤艮山に学んで実証精神を身につけ,中国古典にいう五臓六腑説に疑問をもち,動物解剖を試みたが満足できずに年月を経過するばかりだった。その間,儒学の古学派荻生徂徠の学問に傾倒し,梁田蛻巌(やなだぜいがん)がそれを戒めたが,徂徠の高弟太宰春台,服部南郭と交わり徂徠学の感化を受け実証精神を深めた。…

【吉益東洞】より

…江戸中期の古医方派医学四大家の一人。広島の医師畠山重宗の長男として生まれ,名は為則,字は公言,通称は周助,はじめ東庵と号した。…

※「古医方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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