吉益東洞(読み)ヨシマストウドウ

デジタル大辞泉 「吉益東洞」の意味・読み・例文・類語

よします‐とうどう【吉益東洞】

[1702~1773]江戸中期の医学者。安芸あきの人。名は為則。あざな公言通称、周助。古医方を学び、万病一毒説、また診察重要性主張。著「類聚方」「薬徴」など。

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精選版 日本国語大辞典 「吉益東洞」の意味・読み・例文・類語

よします‐とうどう【吉益東洞】

  1. 江戸中期の医者。広島の人。名は為則。古医方を主張し、山脇東洋に認められた。著「類聚方」など。元祿一五~安永二年(一七〇二‐七三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉益東洞」の意味・わかりやすい解説

吉益東洞
よしますとうどう
(1702―1773)

江戸中期の医師。広島の人。名は為則、字(あざな)は公言、通称は周助。初め東庵(とうあん)、のちに東洞と号した。19歳のとき、発心して医学を学び始め、能津祐順について金瘡(きんそう)外科を学んだ。その後、独学で古今の医書を読破、ついにその当時流行の後世(ごせい)家医方を排し、古医方によるべきことを主張した。1738年(元文3)京都に移り、開業し、大いに自説を唱えたが、時流にあわず窮乏した。しかしなお、自説を曲げず、一時は紙人形をつくって売り、生活の糧(かて)とした。44歳のおり、山脇東洋(やまわきとうよう)に認められ、これが機縁となって世に知られるようになった。彼はいっさいの伝統的理論を退け、「万病一毒説」を唱えた。これは病気の本体として毒を考え、毒はなんらかの原因で身体の中に生じるがただ一種であり、それを除くには強い薬を用いなければならないとした。また診察を詳しくすべきであることを主張した。著書に『類聚(るいじゅう)方』『方極(ほうきょく)』『薬徴(やくちょう)』などがある。

[大鳥蘭三郎]

『呉秀三、富士川游選・校『東洞全集』(1970・思文閣)』

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朝日日本歴史人物事典 「吉益東洞」の解説

吉益東洞

没年:安永2.9.25(1773.11.9)
生年:元禄15.5(1702)
江戸中期の医者。広島に生まれる。父は畠山重宗,母は花。名を為則,字は公言,通称は周助,初め東庵と号したが,のちに東洞と改めた。19歳のときに医を志し,初め能津祐順について吉益流金瘡産科を学んだ。そののち独学で『素問』をはじめとする医学の古典を精読したが,当時盛行していた金元流の医学に不信感を抱き,名古屋玄医,後藤艮山らの医説に共感を抱いた。30歳ごろに万病一毒説を立て,張仲景の『傷寒論』を基準として治療の方針を立てることを唱導した。東洞によれば,生体に何らかの理由で後天的に生じた毒が疾病の原因であり,毒の種類はひとつしかない。一種類しかない毒のためにどうして万病を生ずるかといえば,それは毒の存在する部位が異なるためであるという。これは中国医学ではきわめて例外的な個体病理論的発想であり,同じ古方派の艮山の提唱した一気留滞説とは根本的に異なる。 37歳のときに上京して万里街春日小路南に居をかまえ,古医方を唱え,同時に曾祖父の姓吉益氏に復した。生計が苦しく人形造りをして暮らしていたが,44歳で偶然のことから山脇東洋と識り,急に医名が高まり,47歳のときに東洞院に移転した。東洞の号はこのときに始まる。多くの著書があるが,特に重要なのは『医断』『薬徴』『類聚方』であろう。『医断』は医論集であり,『薬徴』は本草とは違った立場からみた生薬の薬能を論じたものであり,『類聚方』は『傷寒論』の三陰三陽などの文脈を無視し,処方別に再構成したものである。陰陽五行説関連の条文は「仲景の口吻ではない」としてこれを全面的に削除している。しかし腹診を重視したのは東洞が最初ではなく,曲直瀬道三・玄朔の著述にもみられ,『医断』の「腹は生あるの本。故に百病は此に根さす」の語もすでに玄朔の『百腹図説』にみえる。東福寺荘厳院に葬られた。

(大塚恭男)

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改訂新版 世界大百科事典 「吉益東洞」の意味・わかりやすい解説

吉益東洞 (よしますとうどう)
生没年:1702-73(元禄15-安永2)

江戸中期の古医方派医学四大家の一人。広島の医師畠山重宗の長男として生まれ,名は為則,字は公言,通称は周助,はじめ東庵と号した。祖父政光(道庵)の門人能津祐順に吉益流金瘡産科の術を学んだが,古方医学を志して独学,30歳のころ万病一毒説を唱えた。1738年(元文3)37歳で一家をあげて京都に移住し開業し,元祖の姓の吉益を名乗った。はじめは不遇で貧困であったが,たまたま山脇東洋と会ってその才を認められ,東洋の推挙で世に出てその名を知られるようになった。46歳のとき東洞院町に移ったころから医業も盛業となり門弟も増えた。東洞の号はその住所に由来する。しかし山脇東洋とは思想的立場を異にし,解剖無用論者で,体表にあらわれる病証を的確にとらえることで治療が達せられるとし腹診を重視し,作用の激しい薬物を好んで使用した。日本的薬効論の《薬徴》,《類聚方》《医事或問》《方極》等多数の著書がある。長子南涯がそのあとをつぎ吉益流古方派医学を発展させた。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉益東洞」の意味・わかりやすい解説

吉益東洞
よしますとうどう

[生]元禄15(1702).広島
[没]安永2(1773).9.25. 京都
江戸時代中期の古方派医家。父畠山重宗は吉益流の金瘡医。初め兵法を学んだが,19歳で医を学び,古医書を読破して,古医方を唱えた。元文3 (1738) 年京都に出て開業したが,患者も弟子も少く,貧困,不遇で,人形を作って生計を立てた。 44歳のとき,古方派の名医山脇東洋と相知り,その推挙でにわかに天下に名を知られるようになったといわれる。万病一毒説を唱えた。「諸病ともに一の毒あり。その毒動いて症候を発現する。…いかに外邪襲いくるとも,体内に毒がなければ発病しない。薬物もまた毒である。毒をもって毒を攻め,毒を去れば病は治まる」というのが万病一毒説であった。このため,治療には反応の強い,攻撃性の薬を用いて,毒の排出をはかった。また毒の留滞するところは腹の場合が多いとして,脈診よりも腹を按じて病を診察する腹診に重きをおいた。主著『医断』『医事或問』『類聚方』『薬徴』。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉益東洞」の解説

吉益東洞
よしますとうどう

1702.5.-~73.9.25

江戸中期の医師・古方家。父は畠山重宗。名は為則,通称は周助。東洞は号。安芸国広島生れ。古医方を修め,天下の医師を医すとの理想にもえて,1738年(元文3)京都に移った。後藤艮山(こんざん)についてさらに古医方を究め,親試実験主義を貫き万病一毒説を唱えた。山脇東洋の推挽により世に認められ,医名は全国にひびいた。門人は中西深斎・前野良沢・和田東郭ら千数百人。著書「類聚方」はベストセラーで,ほかに「方極」「薬徴」「医事或問」「古書医言」。墓所は京都市の荘厳寺。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉益東洞」の解説

吉益東洞 よします-とうどう

1702-1773 江戸時代中期の医師。
元禄(げんろく)15年5月生まれ。吉益南涯(なんがい)の父。はじめ吉益流金瘡(きんそう)産科をまなんだが,独学して独自の万病一毒説にもとづく古医方をとなえる。元文3年京都で開業,山脇(やまわき)東洋にみとめられ世に知られた。安永2年9月25日死去。72歳。安芸(あき)(広島県)出身。本姓は畠山。名は為則。字(あざな)は公言。通称は周助。別号に東庵。著作に「類聚方」「薬徴」など。

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百科事典マイペディア 「吉益東洞」の意味・わかりやすい解説

吉益東洞【よしますとうどう】

江戸中期の医学者。名は為則,通称は周助。広島の人。1738年京都で開業,山脇東洋の推挙を得て当代一流の医家となる。万病一毒説を唱え,古医方の第一人者とされる。《類聚方》《薬徴》など著書多く,その主張は門人の集録した《医断》に詳しい。

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旺文社日本史事典 三訂版 「吉益東洞」の解説

吉益東洞
よしますとうどう

1702〜73
江戸中期の医学者
安芸 (あき) (広島県)の人。京都に出て,古医方 (こいほう) による医業を営み,不遇であったが,のち山脇東洋に認められ有名となった。陰陽五行説に基づく医学を排し,病気の内的原因をつきとめようとして実験医学への道を開拓した。

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