江戸中期の医師。広島の人。名は為則、字(あざな)は公言、通称は周助。初め東庵(とうあん)、のちに東洞と号した。19歳のとき、発心して医学を学び始め、能津祐順について金瘡(きんそう)外科を学んだ。その後、独学で古今の医書を読破、ついにその当時流行の後世(ごせい)家医方を排し、古医方によるべきことを主張した。1738年(元文3)京都に移り、開業し、大いに自説を唱えたが、時流にあわず窮乏した。しかしなお、自説を曲げず、一時は紙人形をつくって売り、生活の糧(かて)とした。44歳のおり、山脇東洋(やまわきとうよう)に認められ、これが機縁となって世に知られるようになった。彼はいっさいの伝統的理論を退け、「万病一毒説」を唱えた。これは病気の本体として毒を考え、毒はなんらかの原因で身体の中に生じるがただ一種であり、それを除くには強い薬を用いなければならないとした。また診察を詳しくすべきであることを主張した。著書に『類聚(るいじゅう)方』『方極(ほうきょく)』『薬徴(やくちょう)』などがある。
[大鳥蘭三郎]
『呉秀三、富士川游選・校『東洞全集』(1970・思文閣)』
江戸中期の古医方派医学四大家の一人。広島の医師畠山重宗の長男として生まれ,名は為則,字は公言,通称は周助,はじめ東庵と号した。祖父政光(道庵)の門人能津祐順に吉益流金瘡産科の術を学んだが,古方医学を志して独学,30歳のころ万病一毒説を唱えた。1738年(元文3)37歳で一家をあげて京都に移住し開業し,元祖の姓の吉益を名乗った。はじめは不遇で貧困であったが,たまたま山脇東洋と会ってその才を認められ,東洋の推挙で世に出てその名を知られるようになった。46歳のとき東洞院町に移ったころから医業も盛業となり門弟も増えた。東洞の号はその住所に由来する。しかし山脇東洋とは思想的立場を異にし,解剖無用論者で,体表にあらわれる病証を的確にとらえることで治療が達せられるとし腹診を重視し,作用の激しい薬物を好んで使用した。日本的薬効論の《薬徴》,《類聚方》《医事或問》《方極》等多数の著書がある。長子南涯がそのあとをつぎ吉益流古方派医学を発展させた。
執筆者:宗田 一
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1702.5.-~73.9.25
江戸中期の医師・古方家。父は畠山重宗。名は為則,通称は周助。東洞は号。安芸国広島生れ。古医方を修め,天下の医師を医すとの理想にもえて,1738年(元文3)京都に移った。後藤艮山(こんざん)についてさらに古医方を究め,親試実験主義を貫き万病一毒説を唱えた。山脇東洋の推挽により世に認められ,医名は全国にひびいた。門人は中西深斎・前野良沢・和田東郭ら千数百人。著書「類聚方」はベストセラーで,ほかに「方極」「薬徴」「医事或問」「古書医言」。墓所は京都市の荘厳寺。
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