家として農業を営んでいる世帯をいう。日本の統計上の定義は,第2次大戦前は〈生業として農業を営むもの〉といった程度の漠然としたものであったが,1950年の農林業センサスで,はじめてはっきりした規定が与えられた。すなわち,東日本(千葉,埼玉,群馬,富山以東)では1反(10a),西日本(東京・山梨・長野・石川以西)では5畝(5a)以上の耕地を経営する世帯を農家と定めた。ただし,経営耕地面積がそれ以下またはまったくないものでも,ある程度以上の農産物販売額のあった世帯は,農家にふくめられている。農家戸数は,明治以降ほぼ550万戸ぐらいであったと考えられているが,第2次大戦により工業部門が破壊された結果,多くの人口が農村に還流して,1950年には618万戸に増加した。その後しだいに減少し,80年には466万戸となっている。
90年の農林業センサスから農家の定義が変更され,全国一律に経営耕地面積10a以上,または1年間の農産物販売金額が15万円以上の世帯とされた。この規定による農家数は344万戸(1995)である。
農家はいろいろな観点から分類されるが,最も基本的なのは,経営耕地面積による分類である。全国平均の1戸当り経営耕地面積はほぼ1haである。1960年代以前には,日本の農業経営はほとんどが稲作を中心としており,経営耕地面積の大小が,すなわち経営の規模であると考えてさしつかえなかった。しかしその後,施設園芸や畜産などの発展にともない,耕地面積は小さくても経営的には大きい農家が現れてきたので,耕地面積規模による分類の意義は若干低下した。その他の農家分類としては,専業・兼業別分類(専業農家・兼業農家),経営組織別分類(単一経営・複合経営)などがある。農地改革によって地主制が消滅する以前は,経営耕地の所有に関する自作・小作別分類が最も重要であったが,現在ではその意義は少ない。むしろ経営の内容・作目に注目した経営組織別分類が,経営の多様化にともなって,重要性を高めている。
執筆者:荏開津 典生
中国古代の諸子百家に数えられた農政学派。農業神神農を奉じた戦国期の許行(きよこう)や陳相(ちんしよう)は,生産労働を重んじ国民皆農の〈君民並耕〉を説き,農業保護の物価統制策を主張した。孟子は精神・肉体労働の分業を,治者・被治者の関係でとらえ,この耕農優先説を君臣の本分を乱す逆コースと非難した。一方,君権強化の農民保護論も,后稷(こうしよく)を始祖と仰ぐ一派によって首唱され(《呂氏春秋》上農など),統一国家の農政を準備した。《漢書》芸文志の諸子略〈農家〉にみえる《神農十四篇》《野老十七篇》などは戦国期の重農学派の書であろうが,秦・漢帝国の出現後は,授時(国家による農事暦の時令・月令の公布)の思想が行われ,前漢の趙過の代田法や《氾勝之(はんしようし)書》のような勧農政策からの新農業技術(区種法)は内容を伝存したが,先秦諸子の農家思想は消滅した。
執筆者:戸川 芳郎
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農民の家。農業に従事する人の住居。付属屋を含む全体をさす場合と、居住部分だけをさす場合とがある。歴史的には町屋とともに民家とよばれることが多い。明治維新ごろには、江戸時代以来の地域的特色を平面にも様式にもみせていたが、近代化されるにしたがって特色が薄れつつある。また、規模的にみると20坪程度が平均的で、10坪程度の小さな家では土間と1、2部屋の居住部分だけの間取り、20坪程度では接客や儀礼に使われる座敷を付加した間取りであったが、近代化の過程において衛生面や作業能率あるいは生活意識の面から改善が唱えられ、大正の末ごろには改善を目ざして農村住宅の懸賞募集などが各県で行われるようになり、昭和に入ってしだいに具体的な住宅改良がみられるようになった。しかし、本格的に農家が改革されるのは敗戦に伴う農地解放以後のことで、さらに戦後の機械化による生産性の向上もあって、農家の平均規模は拡大している。
[平井 聖]
諸子分類上、九流十家の一つ。班固(はんこ)の『漢書(かんじょ)』芸文志(げいもんし)に、農家の書9点をあげるが、いずれも現存しない。ただし、遺説の一端は、『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』士容論中の四編にうかがうことができる。そこでは農業を治政の根本とする考え、および具体的な耕耘播種(こううんはしゅ)の技術が説かれている。このように重農主義の観点から農業技術の向上を追求するのが農家の本流であったと推測されるのだが、これとは別に特異な社会運動を展開した一派がある。『孟子(もうし)』にみえる許行(きょこう)の一派がそれで、許行は神農の教えを奉じ、君民ともに額に汗して耕作すべき旨を説き、原始共産制ふうの自給自足の集団生活を実践した。なお、神農は後世、薬物の神としても崇拝される。
[伊東倫厚]
(池上甲一 近畿大学農学部教授 / 2007年)
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…農家における経営移譲と親族間扶養に関する父子契約ないし家族協定。日本の農村では,高度成長中期にあたる1960年代の中ごろから,市町村・府県段階の卓抜したリーダーがいて,しかも多くの農家がその指導に呼応する特定の地域で,農家世帯の中に,世代交代を円滑に行い,家族農業経営に新しい活力を付与しようとする動きがみられる。…
…このように二階座敷が普及し始めると,階段もそれまでの急勾配のものからゆるい勾配のものに改められ,町家等では階段の側面に引出しを組みこんだ箱階段も採用された。農家もほとんどは平屋であった。ただし,白川郷の農家のように簣の子(すのこ)を用いて屋根裏に2ないし3段の床を設けるものがあり,江戸時代後期になると群馬県その他の養蚕地帯には,土間の上だけに中二階を設けたり総二階にして,それらを養蚕のために使うものが現れた。…
…それをどう打開し,解決していくかが,先進資本主義国,社会主義国,発展途上国のすべてを含めて,世界的・国際的な課題とされ始めている。食糧問題
【日本の農業】
日本の農業は,約450万戸の農家が約540万haの耕地を利用して営んでいるが(1980年代初頭),その基本的な特徴は以下のような点にある。第1は物的ないし技術的な特徴であって,(1)狭小な農用地(耕地)を利用して,稲作中心の水田灌漑農業が発達してきたことである。…
…老子や荘子の考えは,道を根本として構成されるので,道家とよぶ。このほか論理学を説く名家,陰陽論を説く陰陽家,上述の蘇秦・張儀のごとく外交術を説く縦横家,農業技術や農民思想を説く農家など多くの流派の思想家が活躍し,互いに影響しあい,中国史上最も自由に思想が説かれた時代であり,これらを諸子百家と総称するが,後世に大きな影響を与えたのは儒家と道家であり,法家は思想として表面にあらわれなかったが,儒家の徳をたてまえとする政治を支える技術としてつねに利用された。 このように多様な思想が自由に展開したのは,人間精神の躍動を示すものであり,これは芸術にもあらわれた。…
…【川田 信一郎】
[中国]
中国における農学は,戦国時代の前4世紀ころに勃興してくる。当時,諸子百家の中に農家と呼ばれる集団がいて,とりわけ顕著な動きを示していたのは,神農を農業神としてあがめる南方の楚出身の許行一派と,周の始祖后稷(こうしよく)を農業神としてあがめる中原の農家集団とであった。前者は商業利潤を抑制して物価を安定させ,支配者たる者も農業生産に従事すべきであるという〈君民並耕説〉を唱え,為政者から顰蹙(ひんしゆく)を買った。…
※「農家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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