大津(読み)オオツ

デジタル大辞泉 「大津」の意味・読み・例文・類語

おおつ〔おほつ〕【大津】

滋賀県南西部の市。県庁所在地琵琶湖の南西岸にあり、市域はL字状をなす。天智天皇大津宮が置かれたという地。古くから水陸交通の要地で、東海道中山道北陸道の宿駅、また園城寺(三井寺)の門前町として発展。江戸時代は幕府直轄地。石山寺延暦えんりゃくなどの古社寺や史跡が多い。平成18年(2006)3月、志賀町を編入。人口33.8万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「大津」の意味・読み・例文・類語

おお‐つおほ‥【大津】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 船が多く泊まる処。
      1. [初出の実例]「大津(おほつ)の辺(へ)に居る大船を、舳(へ)解き放ち、艫(とも)解き放ちて」(出典:延喜式(927)祝詞)
    2. 土壁の上塗りに用いる土の一種。もと近江国大津付近で産出した土を主材としたところからいう。白大津、黄大津、茶大津、泥大津、鼠大津などがある。
    3. おおつうま(大津馬)」の略。
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 滋賀県南部、琵琶湖南岸の地名。県庁所在地。古代、大津宮が置かれた地。古くから交通上の要地で宿場町、港町として発展。江戸時代は幕府直轄領。比叡山、園城寺(おんじょうじ)(=三井寺)、石山寺など史跡、観光地に富む。明治三一年(一八九八)市制。古津。
    2. [ 二 ] 山口県の北西部にあった郡。現在の長門市域に相当。〔二十巻本和名抄(934頃)〕

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日本歴史地名大系 「大津」の解説

大津
おおつ

琵琶湖の南西岸、現在の大津港南西部に位置した古代・中世の交通の要衝。北には天智天皇が造営した近江大津宮があり、一一世紀後半から大津浦の支配をめぐって山門と寺門が争い、一二世紀頃から東浦を延暦寺、西浦を園城おんじよう寺が分割支配していた。近世には大津百町が形成される。「輿地志略」は大津について「日本広邑三十六の其一にして、近江二湊の第一也、大津・八幡を当国の二湊といふ」と記す。滋賀県庁北側からは東浦ひがしうら廃寺が発見されており、平安期の軒平瓦などに混じって四重弧文軒平瓦も検出され、白鳳時代までさかのぼる遺跡とされるが、創建やその推移は未詳。

〔大津の復活〕

「日本書紀」持統天皇六年(六九二)閏五月一五日条によると、筑紫大宰帥河内王らは、「近江大津宮天皇の為に造れる阿弥陀像上送れ」と命じられている。「万葉集」巻一には「近江大津宮に天の下治めたまふ天皇の代」とか、柿本人麻呂の長歌に「いはばしる近江の国の楽浪の大津の宮に」などとみえ、宮の名称に大津を冠したのは近江宮と津が不可分であったことを示す。すなわち大津は「日本書紀」仁徳天皇三〇年九月一一日条にみえる難波なにわ大津(現大阪市)、同書斉明天皇七年(六六一)三月二五日条にみえる大津(現福岡市)と同様に、大和政権が整備した港湾施設と考えられる。大津となる以前は「万葉集」にみえる「楽浪の志賀津」(巻二など)や「楽浪の志賀の大わだ」(巻一)とよばれていたとみられ、その後、天智天皇六年(六六七)の近江遷都に伴い大津と称するようになったのであろう。

天智天皇一一年近江大津宮は廃都となるが、それに伴って衰退したためか、大津は古津ふるつ(「輿地志略」は「こづ」と訓ずる)とよばれるようになり、宝亀一一年(七八〇)一二月二五日の西大寺資財流記帳(内閣文庫蔵)に「滋賀郡古津庄図」とある。しかし「日本紀略」延暦一三年(七九四)一一月八日条に「滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下、可追昔号改称大津」とあり、平安遷都に伴い、天智天皇直系を自認する桓武天皇が旧称大津の名を復活させている。これによって、大津は平安京に接した都の外港として繁栄する。「延喜式」主税寮によれば、若狭国の諸物は勝野かちの(現高島郡高島町)より大津に送られ、船賃は米石別一升、挟杪の功は四斗、水手は三斗で、越前など北陸諸国の物資は敦賀津より塩津しおつ(現伊香郡西浅井町)に陸送され、同地から大津への船賃は米石別二升、屋賃は石別一升、挟杪六斗、水手四斗とあり、大津より京都への駄賃は米石別八升であった。


大津
おおつ

大阪湾に面した大津川河口右岸、現泉大津市西南部の称。近世に宇多大津うだおおつ村・下条大津げじようおおつ村があった。「日本書紀」皇極天皇三年三月条にみえる、豊浦大臣(蘇我蝦夷)の宅があった「大津」を当地にあてる説があるが(日本書紀通証など)、この大津は難波津のことである。承平六年(九三六)土佐守の任期を終え、海路で帰京の途についた紀貫之は、海賊の横行におびえながら辛うじて和泉の灘に出、二月五日に「をづのとまり」をさして進んだが、そこは見渡す限り松原が続いており、

<資料は省略されています>

と詠んでいる(土佐日記)


大津
おおつ

古代・中世の史料にみえる地名。「播磨国風土記」賀古かこ鴨波あわわ里の条に大津江がみえ、この里の舟引原ふなびきはらの由来は荒ぶる神を恐れて、往来の舟がことごとく印南の大津江にとどまって、川上に上り、賀意理多谷かおりたのたにから舟引原を経て、明石郡の林のみなとに出たことによるという。正中三年(一三二六)の鶴林寺太子堂木部銘には法華堂(太子堂)の五和尚石見の出身を大津長田ながたと記す。観応元年(一三五〇)一二月五日、赤松範資が相続した亡父円心遺領のなかに五箇ごか庄内大津村がみえる(「足利尊氏袖判下文案」森川文書)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大津」の意味・わかりやすい解説

大津(市)
おおつ

滋賀県南西部、琵琶(びわ)湖南西岸にある市で、県庁所在地。1898年(明治31)市制施行。その後、1932年(昭和7)滋賀村、1933年膳所(ぜぜ)町、石山(いしやま)町、1951年(昭和26)坂本、下阪本、雄琴(おごと)、大石、下田上(しもたなかみ)の5村、1967年堅田(かたた)町、瀬田(せた)町を編入。2003年には全国で10番目の古都保存法による政令指定を受けている。2006年滋賀郡志賀町(しがちょう)を編入。2009年(平成21)中核市に指定。面積464.51平方キロメートル、人口34万5070(2020)。

[高橋誠一]

自然

琵琶湖南湖の西岸と瀬田川左岸にまで及ぶL字形の細長い市域を有する。琵琶湖西岸と瀬田川右岸には北から比良(ひら)、比叡(ひえい)山系と音羽(おとわ)山地が湖岸、河岸近くにまで迫る。これらの山から流下する河川による複数の小扇状地が狭長な平地を形成しており、多くの集落が発達している。これに対して瀬田川左岸には南に田上山地、北に沖積平野が広がる。比良山系東側には古琵琶湖層群の滋賀丘陵が続き、音羽山地や瀬田丘陵にも同様の更新世(洪積世)の丘陵が存在する。比良山系西側には著名な花折(はなおれ)断層が南北に続き、葛川(かつらがわ)峡谷を形成している。また比叡山系南部と田上山地は粗粒花崗(かこう)岩の山地。琵琶湖南湖、瀬田川の汚濁や富栄養化が大きな問題となっている。

[高橋誠一]

歴史

大津とその周辺には縄文時代以降の著名な考古学的遺跡が多い。淡水貝塚である石山貝塚をはじめとして蛍谷(ほたるだに)貝塚、粟津(あわづ)湖底遺跡が瀬田川、南湖畔で発見されている。滋賀里(しがさと)式土器という考古学上の名称によっても縄文時代におけるこの地域の重要性が理解できる。また弥生(やよい)時代の遺跡も多く、とくに石山や崇福寺(すうふくじ)跡からの銅鐸(どうたく)出土記録は有名である。古墳は市内に1000基以上もの存在が推定され、渡来系氏族との結び付きが強い例も多い。ことに後期古墳の稠密(ちゅうみつ)な滋賀里地区には、景行(けいこう)、成務(せいむ)両天皇による高穴穂宮(たかあなほのみや)伝承地(穴太(あのう))や大津京も含まれており、注目すべき地域である。

 667年(天智天皇6)から6年間置かれた大津京については、従来諸説があり、その都市プランはなお明らかではない。しかし1974年(昭和49)に大津市の錦織(にしこおり)の「御所ノ内」で宮殿と推定される遺構が発掘され、1978年県教育委員会によって大津宮として認められた。しかし、この地区を宮跡と考えれば京域をどう比定するのか、などの問題点がなお残されている。近江(おうみ)国府は瀬田川左岸の瀬田に置かれたことは確実であり、国庁の発掘調査によってその全容が解明されつつある。恵まれた交通条件もあって大津市には帝都と国府が設置されたが、これらは現在の大津市街地とかならずしも直接的に結び付くものではない。むしろ平安時代以降、ことに重要性を増した大津浦や、門前町を形成した園城寺(おんじょうじ)、逢坂関(おうさかのせき)の近くの関寺などが大津市街地の形成にとっては、より大きな意味をもつ。

 中世以降も物資中継地として重要な位置にあり、とくに豊臣(とよとみ)秀吉によって大津城が築かれ、大津百艘船(ひゃくそうせん)の制が決められてからは、水陸交通の要衝、戦略的要地としての発展が著しかった。江戸時代、幕府は大津町を幕府領とし、大津城を膳所に移して膳所藩を置き、これ以降、港と宿場町の大津と、城下町の膳所という二極構造が生まれることになった。

[高橋誠一]

産業

近世には大津そろばんや針製造、さらに膳所焼などがよく知られ、現在でも長い伝統をもつ大津絵、組紐(くみひも)、近江鳥の子紙などの生産が続けられている。近代工業としては石山、瀬田地区を中心に紡績、化学、電気、食品、電子デバイスなどの工場が立地している。

[高橋誠一]

交通

大津の交通上の重要性は古く、明治以後も近代的交通機関が集中する。1869年(明治2)の大津―海津間の外輪船就航に始まり、太湖汽船会社の発足、1880年の東海道本線逢坂山トンネルの完成と大津―京都間の鉄道開通、疎水の開通、大正期の新逢坂山トンネルの建設、京津電鉄(現、京阪電鉄京津線)や江若(こうじゃく)鉄道(大部分は現、JR湖西線(こせいせん))の開通で、とくに京都との結び付きが強くなった。京阪電鉄には京都市地下鉄も乗り入れしている。現在では瀬田川に5本の橋が架けられ、東西日本を連絡する大動脈として機能している。上記のほか、京阪電鉄石山坂本線、比叡山鉄道線、国道1号、161号、422号、477号、名神高速道路などが通じ、大津、瀬田西、瀬田東の各インターチェンジがある。

[高橋誠一]

文化・観光

延暦寺(えんりゃくじ)、園城寺(三井寺)、日吉(ひよし)大社、聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)、西教寺、石山寺などの古社寺や、近江国庁跡、南滋賀町廃寺跡、義仲寺(ぎちゅうじ)境内などの国指定史跡の存在と、琵琶湖、瀬田川の景観とが相まって、大津は観光地としても知られる。延暦寺は1994年に世界遺産(文化遺産)に登録されている。古くは『万葉集』にも詠まれ、『蝉丸(せみまる)』『志賀』などの謡曲にも取り入れられ、さらに井原西鶴(さいかく)『好色一代男』や松尾芭蕉(ばしょう)『幻住庵記(げんじゅうあんき)』の舞台ともなった。また、いわゆる「近江八景」のうち七景が大津市内に含まれる。独特の「大津絵」は現在もなお人気を集めている。琵琶湖大橋(1964)、近江大橋(1974)の完成や、比叡山・奥比叡ドライブウェイの開通も大津の観光面での発展を促進し、単なる史跡観光のみではなく、スポーツ、レジャーの拠点となっている。文化施設に県立近代美術館、県立芸術劇場びわ湖ホール、市歴史博物館、近江神宮時計館宝物館木下美術館などがある。そのほか、比叡山の東麓には雄琴(おごと)温泉がある。1995年には大津港の防波堤に大噴水(びわ湖花噴水)が完成した。

[高橋誠一]

『奈良本辰也・小牧実繁編『新大津市史』(1962・大津市)』『『新修大津市史』(1978~1988・歴史博物館・大津市)』



大津(町)
おおづ

熊本県北部、菊池郡(きくちぐん)にある町。1889年(明治22)町制施行。1956年(昭和31)平真城(ひらまき)村、護川(もりかわ)村(一部)、瀬田村(一部)、陣内(じんない)村、錦野(にしきの)村(一部)と合併。名を足利(あしかが)時代の豪族大津氏に由来するこの町は、その北東半を火山岩(新生代新第三紀)・火山噴出物(同第四紀)の火山地、南西半を段丘礫層(れきそう)の台地で占められている。阿蘇(あそ)を経て、大分に至る豊後街道(ぶんごかいどう)の旧宿場町で、菊池郡南部(旧、合志(ごうし)郡)および阿蘇郡西部の在郷町の役割を果たしている。また、同街道をほぼ踏襲した国道57号、それと併走した豊肥(ほうひ)本線は昭和初期までに整備、建設を終え、中九州横断路としての性格が付与されていた。しかし、隣接菊陽(きくよう)町への熊本空港の移転(1971)、大手オートバイメーカーの工場進出(1976)、熊本市の都市化の東進などによって、北部の畑作(大豆、菜種、ラッカセイ、麦)、南部の揚水依存稲作という伝統的な土地利用パターンは崩れ、野菜、果樹(ブドウ、クリ)などのほか植木栽培が盛んとなってきている。面積99.10平方キロメートル(一部境界未定)、人口3万5187(2020)。

[山口守人]

『吉田菊南著『大津史』(1955・大津町)』



大津(茨城県)
おおつ

茨城県北茨城市北東部の地区。旧大津町。JR常磐(じょうばん)線大津港駅があり、国道6号が通じる。丘陵性の山地に囲まれ、里根(さとね)川河口に良港大津港がある。近世以来漁業で栄え、カツオ、アワビが主であったが、大正期はイワシ、昭和期はサンマ、サバや水産加工業も盛んとなった。お船祭(県指定無形民俗文化財)と盆船流しは最大の行事。五浦(いづら)は岡倉天心の遺跡がある景勝地。

[櫻井明俊]



大津(高知市)
おおつ

高知市東部の一地区。旧大津村。国道32号、195号、土讃(どさん)線、土佐電鉄が通じる。工業団地、食品団地、住宅地の造成など市街地化が著しい。土佐国府の外港所在地とされ、紀貫之(きのつらゆき)の『土佐日記』にも船出の地として記載。近世以降の干拓地が広がり、かつては水稲二期作地。大津民具館がある。

[大脇保彦]

『山本大他著『大津村史』(1958・大津村)』

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改訂新版 世界大百科事典 「大津」の意味・わかりやすい解説

大津[市] (おおつ)

滋賀県南西部,琵琶湖の南西岸に位置する県庁所在都市。2006年3月旧大津市が志賀(しが)町を編入して成立した。人口33万7634(2010)。

大津市の大部分を占める旧市で,県庁所在都市。1898年市制。1932年滋賀村,33年膳所(ぜぜ)町,石山町,51年坂本村,下阪本村,雄琴(おごと)村,下田上村,大石村,67年堅田町,瀬田町を編入。人口30万1672(2005)。都市としての起源は天智天皇が大津京を造営した667年(天智6)までさかのぼる。大津の中心市街は交通の要衝に位置しているため,近世には東海道の宿場町,琵琶湖水運の港町として繁栄するとともに,西国三十三所の第14番札所園城(おんじよう)寺(別称,三井寺)の門前町としてにぎわった。近世の京町通りは,札の辻を中心として本陣,脇本陣のほか旅籠も多く,大津絵,大津針,大津そろばんなどを売る店が軒を連ねていた。大津港は北国米輸送の中継港として活況を呈し,湖岸には幕府や北国諸藩の米倉が立ち並び,浜通りは米問屋が集中し,米相場が立ってにぎわった。市北部の堅田は,琵琶湖の水運と漁業の特権をもっていた堅田衆の本拠地で,湖中に浮御堂(うきみどう)があり,〈堅田の落雁(らくがん)〉は近江八景の一つに数えられている。比叡山(848m)東麓の坂本は延暦寺の門前町で里坊(さとぼう)が多く,その南の穴太(あのう)は城郭の石垣づくりで知られる穴太(穴生)衆の出身地である。大津の旧市街の南東に連なる膳所は本多氏6万石の城下町で,現在も武家屋敷や古い町並みが残っている。膳所の南東に続く石山は,西国三十三所の第13番札所石山寺の門前町として発達したが,1926年の東洋レーヨンの工場建設を契機にして,繊維,電気機器関係の工場立地があいつぎ,急速に工場街に変貌した。瀬田川を挟んで石山と向かいあう瀬田は近江国府の所在地で,75年ごろから古琵琶湖層群の丘陵地の開発が進展し,滋賀医科大学,竜谷大学,県立図書館,県立埋蔵文化財センター,県立近代美術館などが建設され,県の文化・教育の中心地になりつつある。大津はJRの東海道本線と湖西線,京阪電鉄の京津線と石山坂本線,国道1号,161号線,名神高速道路などが通じていて交通の便がよいため,近年は京阪神のベッドタウン的な性格が強まっている。
執筆者:

667年の大津京遷都(近江大津宮)のころよりその地名がみえる。大津京が廃都となってのちは,古津(ふるつ)とも呼ばれたようで,794年(延暦13)の平安遷都直後には,古津の呼称を昔の大津に改めるべしという詔が発せられている。平安京遷都以後は,京都の東の外港として栄え,はやく《蜻蛉日記》はその殷賑(いんしん)の有様を描いて,〈いとものむつかしき屋ども〉が建ち並び,近辺の浜には〈湖面(うみづら)にならびてあつまりたる屋どものまへに,船どもをきしにならべよせつゝあるぞいとおかしき〉と記す。また《新猿楽記》には,東は〈大津,三津〉,西は〈淀の渡,山崎〉にと走り回る馬借・車借が描かれており,西の淀・山崎とともに,東の大津・三津が京都の外港として栄えていたことがうかがわれる。なお三津とはのちの下坂本を指し,志津,今津,戸津の三つの港があったところから,こう呼ばれたものである。鎌倉時代になると,京都の外港としては,比叡山延暦寺の港としての機能をも兼ねそなえていた三津のほうが発展し,大津は取り残されることとなる。しかし1586年(天正14)豊臣秀吉によって城が坂本より大津に移されるとともに,坂本の繁栄は過去のものとなり,これに代わって大津が著しい発展をとげることとなる。秀吉は城を大津に移した直後,大津に百艘船と呼ばれる湖上運送業者の仲間を作らせ,京都の外港としての大津の発展をはかり,ここに近世初頭の大津の発展は約束されたのであった。
執筆者: 近世の大津は,東海道の宿場町として,また琵琶湖水運のかなめ的な港町として,京都の喉元(のどもと)を扼(やく)す重要な位置を占め,江戸幕府の政権下にあっては幕府の直轄都市として大津代官の監督下におかれていた。景観的には,大津城時代の城下町を想起させる計画道路による町割りがなされ,町名にも同業者町のなごりをとどめる。また北陸敦賀へ通じる北国街道も市街を貫通しており,東海道(市街では場所により八町通り,京町通りと呼称)との分岐点は高札場となっていて札の辻と呼ばれていた。さて1600年(慶長5)の関ヶ原の戦を前にして,東軍についた大津城主京極高次は,籠城戦で西軍の進撃を阻止し,徳川家康に勝利をもたらす。この籠城戦によって大津は焦土と化し,城は膳所へ移転したが(天守閣のみは彦根城に利用),02年家康より地子免許の特典をうけ漸次復興を遂げた。江戸初期の正確な人口は不明だが,91年(元禄4)には1万8774人,以後1万6000から1万7000人台を維持し,1783年(天明3)には飢饉のためもあってか1万4950人と減少,そのまま幕末に至っている。大津代官所は大津城旧本丸跡におかれ,初代に小野貞則が就任。以後しばらく小野家による世襲が続く。1722年(享保7)京都町奉行の直轄となり大津代官は廃されるが,72年(安永1)に復活する。また慶長年間には東海道の宿駅に指定され,36人,36疋の人足,伝馬の常置が命じられ,それは1635年(寛永12)100人,100疋に増加されている。人足・伝馬の差配は札の辻におかれた人馬会所でなされ,後述する総年寄,町代などが監督・事務にあたった。なお負担は,大津町人全体(ただし家持のみ)に課され,家屋敷の間口を基準とした軒役によって配分されている。

 一方,港町の施設としては,湖岸に川口関,大橋堀などの荷揚場が築かれ,その付近に幕府や彦根藩,加賀藩をはじめ多くの蔵屋敷が軒を並べていた。天領,私領の別なく膨大な量の年貢米が荷揚げされ,米相場がたち,1735年(享保20)には米の取引を管掌する御用米会所もおかれている。商業面では,これらの米を扱う米問屋のほか,江戸後期には酒屋,両替屋,絞油屋など37業種が株仲間を結成していた。次に町組織であるが,大津には最盛時で100ヵ町があったが,それらは浜組,中町組,京町組,升屋町組,石川町組,八町組,谷組の7町組に分けられ,各町組ごとに入札制の組惣代,1町ごとに入札か相談によって選ばれる町年寄がいた。そして,大津町全体の代表である総年寄(小野・矢島両家の世襲)の下でピラミッド型の組織を形成。触の伝達などに利用されたが,その一面では,七組惣代の会議にみられる〈自治的〉側面もみられた。なお総年寄のうち小野家は代官小野家の縁類で幕府の年貢米管理にあたっており,矢島家は屋号を扇屋といい,江戸開幕以前より家康と個人的な関係をもつ米商人であった。最後に祭礼であるが,最大のものは天孫神社の秋の例祭として執行される大津祭で,豪華な曳山と巧みなからくり戯は今に伝えられており,その起源は慶長年間に求められている。
執筆者:

大津市の北に位置する旧町。人口2万2047(2005)。琵琶湖の西岸に位置し,西部には比良山地の山々が連なる。急峻な比良山地を源とする小河川が複合扇状地をつくり,白砂青松の湖岸が形成されている。山林が町域の7割を占め,集落は湖岸と国道161号線,湖西道路沿いに分布する。農業は米作を中心とし,花木や野菜の栽培も行われる。1974年の湖西線の開通によって京都の通勤圏に入ったことから,民間企業による住宅地開発が進んでいる。湖岸には近江舞子(雄松崎)などの遊泳場があり,比良山地はスキー場として知られる。古代の豪族小野氏の本拠地で,小野篁(おののたかむら)神社(本殿は重要文化財),小野道風神社(本殿は重要文化財),小野妹子の墓と伝える唐臼山古墳などがある。
執筆者:


大津[町] (おおづ)

熊本県北部,菊池郡の町。人口3万1234(2010)。阿蘇外輪山の西麓を占め,外輪山を切って白川が西流し,川沿いに沖積低地が形成されている。白川北岸の段丘上にある中心集落の大津は江戸時代は豊後(大津)街道の宿駅で,熊本から江戸への参勤の際の最初の宿泊地であり,本陣が置かれ,旅籠が立ち並んでいた。また大津手永会所が仲町にあり,周辺の政治・経済の中心地であった。現在も街村状の町並みが発達している。畜産,米などを主体とする農業を基幹産業としてきたが,1973年北部台地へ本田技研工業のオートバイ工場が誘致され,その関連工場の進出もあって町の性格は大きく変わった。ツツジ祭で知られる大津日吉神社があり,東部にある阿蘇北向谷原生林は天然記念物に指定されている。JR豊肥本線が通じ,近年,熊本の郊外都市として発展が著しい。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「大津」の意味・わかりやすい解説

大津[市]【おおつ】

滋賀県南西部の市。1898年市制。県庁所在地。瀬田堅田(かたた),比叡山東麓の坂本地区も含む。近江(おうみ)大津宮が造営された。中心市街は琵琶湖に臨み逢坂(おうさか)山を背にし,近世には京都の東口をなす街道交通,琵琶湖水運の要衝であった。現在も東海道本線,湖西線,京阪京津線,同石山・坂本線,国道1号線,名神高速道路などが通じる要地。大正以後発達した繊維工業は,現在化学繊維,合繊にかわっているが,電機,ベアリングなどの機械器具工業が盛ん。上田上の雁皮紙,大津絵などの地場産業もある。近年は京阪神の衛星都市としても発展している。市街南東部の膳所(ぜぜ)は本多氏6万石の旧城下町。湖岸の平野部で米を多産,野菜・果樹栽培も活発。延暦寺(世界遺産),石山寺園城(おんじょう)寺,湖岸の景勝地近江舞子などは琵琶湖国定公園に属する。滋賀大学教育学部,滋賀医科大学がある。1993年に琵琶湖がラムサール条約登録湿地となる。2006年3月滋賀郡志賀町を編入。464.51km2。33万7634人(2010)。
→関連項目穴太荘雄琴海津九里半街道塩津滋賀[県]滋賀医科大学七里半越駄賃稼田上杣古津横川関

大津[町]【おおづ】

熊本県北部,菊池郡の町。白川の低地と阿蘇外輪山西斜面にまたがる。主集落は豊後(ぶんご)街道(国道57号線)の旧宿場町で,豊肥本線が通じる。農業を営むほか,酒造,オートバイ,製材,縫製,鋳物などの工業も行う。阿蘇北向谷原生林(天然記念物)がある。99.10km2。3万1234人(2010)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大津」の意味・わかりやすい解説

大津
おおつ

高知県中部,高知市中東部の地域。旧村域。 1972年高知市に編入。宅地化が進み,食品工場が進出。紀貫之の『土佐日記』に舟出の地,国府の外港と記されているが,現在は干拓されて JR土讃線,国道が通る内陸となっている。

大津
おおつ

茨城県北東端,北茨城市東部の漁業集落。旧町名。 1956年近隣町村と合体して北茨城市となった。東よりに岩石海岸で風景に恵まれた五浦 (いづら) 海岸があり,花園花貫県立自然公園に属する。岡倉天心創立の日本美術院跡は,茨城大学五浦美術研究所となっている。

大津
おおつ

北海道南東部,十勝川河口にある豊頃町の集落。旧村名。 1955年豊頃町に編入。十勝地方太平洋岸におけるサケ定置網漁業の中心地。 1905年,釧路-帯広間の釧路線 (現在の JR根室本線) が全通するまで,外洋航路と十勝川の水運の中継地として栄えた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大津」の解説

大津
おおつ

滋賀県,琵琶湖岸南西端にある港町。県庁所在地
667年天智天皇がここに近江大津宮を営み大津京といった。東海・東山・北陸の3道の要地にあたり湖上交通の拠点。中世,坂本と並んで物資の集散が盛んで,問丸 (といまる) も多かった。近世,江戸幕府の直轄地となり,蔵屋敷も置かれた。1898年市制を施行。

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事典・日本の観光資源 「大津」の解説

大津

(滋賀県大津市)
東海道五十三次」指定の観光名所。

大津

(滋賀県大津市)
中山道六十九次」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

デジタル大辞泉プラス 「大津」の解説

大津

熊本県菊池郡大津町にある道の駅。国道57号に沿う。

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世界大百科事典(旧版)内の大津の言及

【十勝川】より

…明治期の開拓当初は水運にも用いられたが,1907年帯広~旭川間に根室本線が開通してからはしだいに衰えた。分流の大津川河口にある大津(豊頃町)は,港町としてにぎわったが,その後水運の衰えとともに衰退した。音更町にある十勝川温泉の下流2kmの地点には長さ約200mの千代田堰堤(えんてい)があり,10月ころには川をさかのぼるサケとサケ漁がみられる。…

【豊頃[町]】より

…十勝川下流域にあり,大半は標高200~300mの丘陵地である。十勝川の最下流部で分流する大津川の河口にある大津は,1825年(文政8)に漁場が開かれた地で,63年(文久3)には初めて和人が定住,81年には最初の入植者があり,以後,十勝平野開拓の門戸として栄えた。93年に帯広へ向かう大津街道ができ,根室本線が内陸に通じてからは中心は交通至便の茂岩に移った。…

【北茨城[市]】より

…茨城県北東端の市。1956年磯原,平潟,大津の3町と周辺3村が合体,市制。人口5万2074(1995)。…

【大洲[市]】より

…【篠原 重則】
[大洲城下]
 伊予国の城下町。近世初期までは大津と書かれ,明暦・万治年間(1655‐61)に大洲と改められた。豊臣秀吉の四国征伐後,池田高祐,藤堂高虎,脇坂安治の城下町となった。…

【穴太荘】より

…近江国滋賀郡の荘園(現,滋賀県大津市坂本穴太町のあたり)。1062年(康平5)の史料に穴太薗としてみえるのが初見。…

【堅田】より

…1825年(文政8),堀田氏の居館は撤収され堅田藩の名は消えたが,堀田領であることには変りなく,明治の廃藩置県に至った。1901年(明治34)堅田町となり,67年大津市に編入。本福寺跡書【下坂 守】。…

【滋賀[県]】より

…面積=4017.36km2(全国38位)人口(1995)=128万7005人(全国31位)人口密度(1995)=320人/km2(全国18位)市町村(1997.4)=7市42町1村県庁所在地=大津市(人口=27万6332人)郷土の花=シャクナゲ 県木=モミジ 県鳥=カイツブリ近畿地方の北東部に位置する内陸県で,東は岐阜県,西は京都府,南は三重県,北は福井県に接し,県央に琵琶湖をかかえる。面積,人口ともに全国のほぼ1%にあたるので〈100分の1県〉といわれる。…

【膳所】より

…中世には粟津七荘のうちの一つ,近世には膳所村で,寛永高帳における村高359石余。関ヶ原の戦後,徳川氏は大津城を廃棄し,改めて諸大名に援助を命じ,湖に突出した膳所ヶ崎の地に膳所城を築城した。これは京への警衛とあわせて江南地域を制する政治・軍事上の目的からといわれる。…

【勢多】より

…現在の大津市瀬田付近をさし,《和名抄》に栗本(くるもと)郡勢多郷がある。古く《日本書紀》は天武1年(672)7月22日,壬申の乱での瀬田の戦いを記し,瀬田橋もすでにあった。…

【馬借一揆】より

…1379年(天授5∥康暦1)6月,近江坂本の馬借1000余人が京の祇園社に討ち入ったというのが初見で(八坂神社〈社家記録〉),山徒(山門の下級僧侶)の一員でありながら幕府と結託して権勢を振るった円明坊と,関のことで争ったことが原因であった。1418年(応永25)には大津の馬借数千人が,やはり祇園社に立てこもって山徒円明坊を攻撃し,米の売買と関について訴えた(《看聞御記》)。26年には坂本の馬借が,北野の麴座の麴室(こうじむろ)独占による米価下落に端を発する強訴で,祇園社と北野社の占拠を企てて幕府軍と対峙した(《満済准后日記》)。…

【古津】より

…現在の滋賀県大津の古称。794年(延暦13)桓武天皇は平安京遷都にともない,古津を大津と改めた。…

【平安京】より

…遷都の翌11月,詔を発して新京を平安京と命名し,国名を〈山背〉から〈山城〉に改めた。なおこのときは近江の古津を大津と改称しているが,これは大津が天智ゆかりの地というだけでなく,東海,北陸に通ずる交通の要衝であるところから,いわば平安京の外港として位置づけられたことを暗示する。造都工事はこれまでの宮都の場合と同様,遷都後も継続された。…

※「大津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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