大津(読み)おおつ

精選版 日本国語大辞典 「大津」の意味・読み・例文・類語

おお‐つ おほ‥【大津】

[1] 〘名〙
① 船が多く泊まる処。
※延喜式(927)祝詞「大津(おほつ)の辺(へ)に居る大船を、舳(へ)解き放ち、艫(とも)解き放ちて」
② 土壁の上塗りに用いる土の一種。もと近江国大津付近で産出した土を主材としたところからいう。白大津、黄大津、茶大津、泥大津、鼠大津などがある。
[2]
[一] 滋賀県南部、琵琶湖南岸の地名県庁所在地。古代、大津宮が置かれた地。古くから交通上の要地宿場町港町として発展。江戸時代は幕府直轄領。比叡山、園城寺(おんじょうじ)(=三井寺)、石山寺など史跡、観光地に富む。明治三一年(一八九八市制。古津。
[二] 山口県の北西部にあった郡。現在の長門市域に相当。〔二十巻本和名抄(934頃)〕

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デジタル大辞泉 「大津」の意味・読み・例文・類語

おおつ〔おほつ〕【大津】

滋賀県南西部の市。県庁所在地。琵琶湖の南西岸にあり、市域はL字状をなす。天智天皇大津宮が置かれたという地。古くから水陸交通の要地で、東海道中山道北陸道宿駅、また園城寺(三井寺)の門前町として発展。江戸時代は幕府直轄地石山寺延暦えんりゃくなどの古社寺や史跡が多い。平成18年(2006)3月、志賀町編入。人口33.8万(2010)。

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日本歴史地名大系 「大津」の解説

大津
おおつ

琵琶湖の南西岸、現在の大津港南西部に位置した古代・中世の交通の要衝。北には天智天皇が造営した近江大津宮があり、一一世紀後半から大津浦の支配をめぐって山門と寺門が争い、一二世紀頃から東浦を延暦寺、西浦園城おんじよう寺が分割支配していた。近世には大津百町が形成される。「輿地志略」は大津について「日本広邑三十六の其一にして、近江二湊の第一也、大津・八幡を当国の二湊といふ」と記す。滋賀県庁北側からは東浦ひがしうら廃寺が発見されており、平安期の軒平瓦などに混じって四重弧文軒平瓦も検出され、白鳳時代までさかのぼる遺跡とされるが、創建やその推移は未詳。

〔大津の復活〕

「日本書紀」持統天皇六年(六九二)閏五月一五日条によると、筑紫大宰帥河内王らは、「近江大津宮天皇の為に造れる阿弥陀像上送れ」と命じられている。「万葉集」巻一には「近江大津宮に天の下治めたまふ天皇の代」とか、柿本人麻呂の長歌に「いはばしる近江の国の楽浪の大津の宮に」などとみえ、宮の名称に大津を冠したのは近江宮と津が不可分であったことを示す。すなわち大津は「日本書紀」仁徳天皇三〇年九月一一日条にみえる難波なにわ大津(現大阪市)、同書斉明天皇七年(六六一)三月二五日条にみえる大津(現福岡市)と同様に、大和政権が整備した港湾施設と考えられる。大津となる以前は「万葉集」にみえる「楽浪の志賀津」(巻二など)や「楽浪の志賀の大わだ」(巻一)とよばれていたとみられ、その後、天智天皇六年(六六七)の近江遷都に伴い大津と称するようになったのであろう。

天智天皇一一年近江大津宮は廃都となるが、それに伴って衰退したためか、大津は古津ふるつ(「輿地志略」は「こづ」と訓ずる)とよばれるようになり、宝亀一一年(七八〇)一二月二五日の西大寺資財流記帳(内閣文庫蔵)に「滋賀郡古津庄図」とある。しかし「日本紀略」延暦一三年(七九四)一一月八日条に「滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下、可追昔号改称大津」とあり、平安遷都に伴い、天智天皇直系を自認する桓武天皇が旧称大津の名を復活させている。これによって、大津は平安京に接した都の外港として繁栄する。「延喜式」主税寮によれば、若狭国の諸物は勝野かちの(現高島郡高島町)より大津に送られ、船賃は米石別一升、挟杪の功は四斗、水手は三斗で、越前など北陸諸国の物資は敦賀津より塩津しおつ(現伊香郡西浅井町)に陸送され、同地から大津への船賃は米石別二升、屋賃は石別一升、挟杪六斗、水手四斗とあり、大津より京都への駄賃は米石別八升であった。

大津
おおつ

大阪湾に面した大津川河口右岸、現泉大津市西南部の称。近世に宇多大津うだおおつ村・下条大津げじようおおつ村があった。「日本書紀」皇極天皇三年三月条にみえる、豊浦大臣(蘇我蝦夷)の宅があった「大津」を当地にあてる説があるが(日本書紀通証など)、この大津は難波津のことである。承平六年(九三六)土佐守の任期を終え、海路で帰京の途についた紀貫之は、海賊の横行におびえながら辛うじて和泉の灘に出、二月五日に「をづのとまり」をさして進んだが、そこは見渡す限り松原が続いており、

<資料は省略されています>

と詠んでいる(土佐日記)

大津
おおつ

古代・中世の史料にみえる地名。「播磨国風土記」賀古かこ鴨波あわわ里の条に大津江がみえ、この里の舟引原ふなびきはらの由来は荒ぶる神を恐れて、往来の舟がことごとく印南の大津江にとどまって、川上に上り、賀意理多谷かおりたのたにから舟引原を経て、明石郡の林のみなとに出たことによるという。正中三年(一三二六)の鶴林寺太子堂木部銘には法華堂(太子堂)の五和尚石見の出身を大津長田ながたと記す。観応元年(一三五〇)一二月五日、赤松範資が相続した亡父円心遺領のなかに五箇ごか庄内大津村がみえる(「足利尊氏袖判下文案」森川文書)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大津」の意味・わかりやすい解説

大津
おおつ

高知県中部,高知市中東部の地域。旧村域。 1972年高知市に編入。宅地化が進み,食品工場が進出。紀貫之の『土佐日記』に舟出の地,国府の外港と記されているが,現在は干拓されて JR土讃線,国道が通る内陸となっている。

大津
おおつ

茨城県北東端,北茨城市東部の漁業集落。旧町名。 1956年近隣町村と合体して北茨城市となった。東よりに岩石海岸で風景に恵まれた五浦 (いづら) 海岸があり,花園花貫県立自然公園に属する。岡倉天心創立の日本美術院跡は,茨城大学五浦美術研究所となっている。

大津
おおつ

北海道南東部,十勝川河口にある豊頃町の集落。旧村名。 1955年豊頃町に編入。十勝地方太平洋岸におけるサケ定置網漁業の中心地。 1905年,釧路-帯広間の釧路線 (現在の JR根室本線) が全通するまで,外洋航路と十勝川の水運の中継地として栄えた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大津」の解説

大津
おおつ

滋賀県,琵琶湖岸南西端にある港町。県庁所在地
667年天智天皇がここに近江大津宮を営み大津京といった。東海・東山・北陸の3道の要地にあたり湖上交通の拠点。中世,坂本と並んで物資の集散が盛んで,問丸 (といまる) も多かった。近世,江戸幕府の直轄地となり,蔵屋敷も置かれた。1898年市制を施行。

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事典・日本の観光資源 「大津」の解説

大津

(滋賀県大津市)
東海道五十三次」指定の観光名所。

大津

(滋賀県大津市)
中山道六十九次」指定の観光名所。

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デジタル大辞泉プラス 「大津」の解説

大津

熊本県菊池郡大津町にある道の駅。国道57号に沿う。

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