中臣意美麻呂(読み)なかとみのおみまろ

改訂新版 世界大百科事典 「中臣意美麻呂」の意味・わかりやすい解説

中臣意美麻呂 (なかとみのおみまろ)
生没年:?-711(和銅4)

奈良朝初期の高官。臣麻呂とも書く。藤原不比等の再従兄弟。若いころに大津皇子と親しかったらしく,686年(朱鳥1)の皇子処刑の際には逮捕されたがすぐ釈放され,689年(持統3)には不比等の下僚判事。693年ころ,再従兄弟の中臣大嶋が没したために中臣・藤原氏の中では不比等に次ぐ高官となったが,娘の宮子を文武天皇夫人とした不比等のため,698年(文武2),藤原朝臣の氏姓は不比等の子孫に限定され,意美麻呂は中臣氏古来の祭祀担当として藤原という称は許されなくなった。中納言,正四位上,神祇伯(神祇官の長官)で没。子の清麻呂は長生きして(87歳)正二位右大臣に昇進し,大中臣氏の祖となる。
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朝日日本歴史人物事典 「中臣意美麻呂」の解説

中臣意美麻呂

没年:和銅4.閏6.22(711.8.10)
生年:生年不詳
7世紀末から8世紀初の官人。国足(鎌足の従兄弟)の子で,東人,清麻呂らの父。名は臣麻呂とも書き,藤原朝臣姓で記されることもある。朱鳥1(686)年大津皇子の謀反に加担して捕らえられたが,皇子処刑後は許されている。このときは大舎人であったという。持統3(689)年藤原不比等らと共に判事に任じられ,律令の整備に尽力したらしい。文武2(698)年8月19日,詔によって藤原姓は鎌足の子不比等だけに継がせ,意美麻呂らは神事に供奉するので,中臣朝臣姓に復することになり,以後藤原氏と中臣氏が截然と分かれていく。その後,鋳銭司長官,左大弁歴任し,和銅1(708)年中納言兼神祇伯となり,政祭両面で重要な位置を占めた。

(森公章)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中臣意美麻呂」の解説

中臣意美麻呂 なかとみの-おみまろ

?-711 飛鳥(あすか)時代官吏
中臣国足の子。中臣東人,大中臣清麻呂の父。朱鳥元年大津皇子の謀反事件に関与して捕らえられたが,のちゆるされる。鋳銭司長官,左大弁,中納言兼神祇(じんぎ)伯などを歴任。文武天皇2年神事につかえることを理由に藤原姓から中臣姓に復した。和銅4年閏(うるう)6月22日死去。名は臣万(麻)呂ともかく。

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