朝日日本歴史人物事典 「大中臣清麻呂」の解説
大中臣清麻呂
生年:大宝2(702)
奈良時代の右大臣。氏名は初め中臣。意美麻呂の7男,母は多治比嶋の娘阿伎良。名は清万呂,浄万呂とも書く。妻は多治比子姉(または古奈禰)。天平10(738)年に参河掾,以後,造弘福寺(川原寺)司判官,神祇少副兼式部大丞,神祇大副,尾張守,左中弁,式部大輔などを歴任,天平宝字2(758)年2月には自宅に大伴家持,市原王らを招いて歌会を催し,自らも4首の歌を詠んでいる(『万葉集』巻20)。6年参議(太政官の政務審議最高機関の構成員)。この間,位階は正六位上から従四位下に累進。天平神護1(765)年1月左大弁兼摂津大夫のとき,藤原仲麻呂の乱の功によって勲4等,同年11月には清慎勤労,誠に嘉することありとの詔により,従三位に昇ったが,時に神祇伯であった。神護景雲3(769)年6月に大中臣の氏名を賜り,宝亀1(770)年正三位,2年1月大納言兼東宮傅となったが,3月には従二位右大臣に任じられた。光仁天皇の信任厚く,宝亀3年2月と9年4月,私邸に再度の行幸があり,清麻呂に正二位,そして妻子にも授位があった。天応1(781)年引退し,平城京の右京2条2坊の地(奈良市西大寺国見町)に没した。その伝に,国の元老,年老いても怠ることなしとある。のちにその邸跡を孫娘の百子が得,祖父のために寺院を建立し,大臣院と称した。<参考文献>岩本次郎「右大臣大中臣清麻呂の第」(『日本歴史』319号)
(岩本次郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報