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大中臣清麻呂 おおなかとみの きよまろ

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大中臣清麻呂 おおなかとみの-きよまろ

702-788 奈良時代の公卿(くぎょう),神職。
大宝(たいほう)2年生まれ。中臣意美麻呂(おみまろ)の7男。神祇大副(じんぎのたいふ),式部大輔(たいふ)などをへて,天平宝字(てんぴょうほうじ)6年参議神護景雲(じんごけいうん)3年大中臣朝臣(あそん)の氏姓をあたえられ,のち大納言にすすむ。宝亀(ほうき)2年右大臣,3年正二位。延暦(えんりゃく)7年7月28日死去。87歳。名は清万呂,浄万呂ともかく。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

大中臣清麻呂

没年:延暦7.7.28(788.9.2)
生年:大宝2(702)
奈良時代の右大臣。氏名は初め中臣。意美麻呂の7男,母は多治比嶋の娘阿伎良。名は清万呂,浄万呂とも書く。妻は多治比子姉(または古奈禰)。天平10(738)年に参河掾,以後,造弘福寺(川原寺)司判官,神祇少副兼式部大丞,神祇大副,尾張守,左中弁,式部大輔などを歴任,天平宝字2(758)年2月には自宅に大伴家持,市原王らを招いて歌会を催し,自らも4首の歌を詠んでいる(『万葉集』巻20)。6年参議(太政官の政務審議最高機関の構成員)。この間,位階は正六位上から四位下に累進。天平神護1(765)年1月左大弁兼摂津大夫のとき,藤原仲麻呂の乱の功によって勲4等,同年11月には清慎勤労,誠に嘉することありとの詔により,従三位に昇ったが,時に神祇伯であった。神護景雲3(769)年6月に大中臣の氏名を賜り,宝亀1(770)年正三位,2年1月大納言兼東宮傅となったが,3月には従二位右大臣に任じられた。光仁天皇の信任厚く,宝亀3年2月と9年4月,私邸に再度の行幸があり,清麻呂に正二位,そして妻子にも授位があった。天応1(781)年引退し,平城京の右京2条2坊の地(奈良市西大寺国見町)に没した。その伝に,国の元老,年老いても怠ることなしとある。のちにその邸跡を孫娘の百子が得,祖父のために寺院を建立し,大臣院と称した。<参考文献>岩本次郎「右大臣大中臣清麻呂の第」(『日本歴史』319号)

(岩本次郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

おおなかとみのきよまろ【大中臣清麻呂】

702‐788(大宝2‐延暦7)
奈良中・後期の貴族。浄万呂とも表記。祭祀により古代の政界に大きな位置を占めた中臣氏の流れをくむ。国足の孫,意美麻呂の子,子老・継麻呂・諸魚らの父にあたる。743年(天平15)従五位下。尾張守,紫微中台大忠,参議,左大弁,神祇伯,大・中納言,右大臣などの要職を歴任し,奈良政治に重きをなした。称徳天皇の信頼をえて769年(神護景雲3)姓大中臣を勅許される。従三位に叙せられるにあたって,〈その累神祇官を任じ清慎自守 清万呂の心名の如し〉と評された。

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世界大百科事典内の大中臣清麻呂の言及

【致仕】より

…具体的なケースをみると,764年(天平宝字8)正月,大宰大弐の吉備真備(きびのまきび)は,数え年70に達して致仕を上表したのであるが,まだ奏上されないうちに,造東大寺司長官に遷任を命ぜられている。また771年(宝亀2)に数え年70に及んだ大納言の大中臣清麻呂(おおなかとみのきよまろ)は,上表して致仕を願ったがゆるされず,774年12月,右大臣に昇進していた清麻呂は重ねて致仕を上表したが,またゆるされていない。ついで桓武天皇即位後の781年(天応1)6月,3度目の上表によって80歳で致仕を承認された。…

※「大中臣清麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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