串良郷(読み)くしらごう

日本歴史地名大系 「串良郷」の解説

串良郷
くしらごう

肝属郡北部に位置した外城中央を串良川南東流し、南の同郡高山こうやま郷との境で東流する肝属川と合流する。西部から北部には笠野原かさのはら台地が広がり、北西で同郡高隈たかくま(現鹿屋市)、西は鹿屋かのや郷に接する。北東部の低台地で日向国諸県もろかた大崎おおさき郷に接し、東は海(志布志湾)に面する。南部は肝属平野が広がる。大之郷に位置付けられ(列朝制度)鹿児島城下よりの距離は古江ふるえ筋で一三里、うち海路八里、陸路は福山ふくやま筋で二五里(「薩藩政要録」など)

肝付氏降伏後天正五、六年(一五七七、七八)から串良は島津図書頭忠長領となり(「島津忠長譜」旧記雑録)、同一五年島津氏が豊臣秀吉に降伏したのちは伊集院幸侃(忠棟)(天正一九年九月二一日「伊集院忠恒証状」同書など)。その後細川幽斎知行分を経て(文禄四年六月二九日「豊臣秀吉朱印知行方目録」島津家文書)、慶長四年(一五九九)島津氏の支配に復した。同年三月五日には島津忠長に川東柏原かわひがしかしわばる村、串良のうち岩弘いわひろ(ともに現東串良町)などが宛行われ(「島津忠恒宛行状」島津尚久系図)庄内の乱での同年六月二二日の恒吉つねよし(現大隅町)攻めの寄手に串良地頭島津図書頭忠長が加わっていた(新納忠元勲功記)。しかし実際には串良郷は島津氏直轄郷であったらしく、諸郷地頭系図には忠長を天正五、六年頃から一六年までの地頭と記し、天正末頃の地頭として佐多越後守忠増、慶長―元和(一五九六―一六二四)の頃の地頭には敷根中務太輔立頼の名が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の串良郷の言及

【串良[町]】より

…町域の大半はシラスの笠野原台地からなり,東部と南部には串良川,肝属川が作る沖積低地が展開する。古くは島津荘寄郡串良院の地で,近世は東接する東串良町とともに薩摩藩直轄の串良郷を形成していたが,1889年の町村制施行により東・西串良村に分割され,1932年の町制施行によって西串良村が串良町となった。笠野原台地の畑地,肝属川流域の水田地帯は古くからシラス特有の崖崩れ,洪水に悩まされてきたが,農地保全事業,笠野原畑地灌漑事業によって災害は減少した。…

※「串良郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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